2018年5月17日木曜日

12日 念佛座談会

 今回も前回同様に法然聖人の御法語を親鸞聖人が晩年に纏められた『西方指南鈔』と『安心小話』より、


〇しかるを阿弥陀仏は、「乃至十念若不生者不取正覚」とちかひて、この願成就せしむがために、兆載永劫の修行をおくりて。今已に成仏したまへり。
 この大願業力のそひたるがゆへに、諸佛の名号にもすぐれ、となふれば、かの願力によりて決定往生おもするなり。
 かるがゆへに如来の本誓をきくに、うたがひなく往生すべき道理に住して、南無阿弥陀仏と唱えてむ上には、決定往生とおもひをなすべきなり。

〇江州吉右衛門の婆の許へ近村の某女尋ね行きたりしが、婆いわく御前様は何処の人なりや。女いわく、某村のものなりと。婆いわく、御前様も御淨土へ参らしてもらう人じゃねい。女いわく、そこが聞こえぬので今日は参りました。婆いわく、それでも御念仏を申さんすもの。

 
 西方指南鈔に関しては前回ご紹介いたしました。
親鸞聖人が晩年になられてもなお、法然聖人の御法語に心をかけていたことがわかります。法然聖人は自力だから親鸞聖人とは違うと仰る方もおられると聞いて居りますが、そのあたりは丁寧に当たっていかなければならないかとおもいます。さて、今回の法然聖人のお言葉に

「乃至十念若不生者不取正覚」とちかひて、この願成就せしむがために、兆載永劫の修行をおくりて

 とあります。法然聖人は法蔵菩薩の修行の目的を「乃至十念若不生者不取正覚」の願いを成就するためだと仰ります。さらにはこの願があるから諸仏の名号よりも勝れていると仰っています。実は「仏の名号」というのは多くの経典に見る事が出来ます。 教行信証(行巻)にも「諸仏はみな、徳を名に施す」(大経義疏 法位)とありますので、仏の名には修行の徳が具わっていると理解されているようです。勿論、阿弥陀仏の御名にも諸仏の名と同様に諸々の善本徳本が施されていますが、それとは別に「乃至十念若不生者不取正覚 (名を称えるばかりで浄土に生れさせる)」と誓われています。これは他の諸仏にはない阿弥陀仏独自の誓願であります。

 その「名を称えるばかりで浄土に生れさせたい」という阿弥陀仏の願いは、私たちに厳しい修行を少しも課すことなく、煩悩の〝そのまま″でナンマンダブツと称えるままで助けるという大慈悲が南無阿弥陀仏の名号となって具体化し、私に届きはたらいているのです。私たちはナンマンダブツと一声称えている上に阿弥陀仏の誓を聞き、一声の念佛の上に念佛往生の誓いを聞き、ナンマンダブツの一声を聞かせていただくばかりで阿弥陀仏の浄土に生れると受け取るばかりであります。
 
 ナンマンダブツ


伊丹市の荒巻バラ園












2018年5月8日火曜日

5月2日 念佛座談会
 

 5月のこの時期は毎年藤の花を見に行きたくなるのですが、
藤の花の開花時期とゴールデンウィークが重なることから藤の名所はどうしても混雑するので、今回も藤の名所行きは断念。しかし、名所ではない場所で樹齢300年といわれる藤の花を見てまいりました。300年前には既にそこにあった藤を“今”見るというのは不思議な事ですね。

 さて、今回の学習会は『松並松五郎語録』と『西方指南抄』より。


〇阿弥陀さんから信心もらうのでなく、阿弥陀さんをもらう。阿弥陀さんから念仏もらうと、思っていたが、念仏が阿弥陀さんであった。 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏  

〇仏様が、私になりきって下されました。

〇法蔵菩薩の五劫の思惟は衆生の意念を本とせば、識揚神飛(しきようしんぴ)のゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立てたまへり。この名号は、いかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に心をかけむとせざれども、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば別に因位の本願を縁ぜむとおもふべきにあらず。

〇(中略)たとへばたきもののにほひの薫ぜる衣を身にきつれば、みなもとはたきもののにほひにてこそありと云とも、衣のにほひ身に薫ずるがゆへに、その人のかうばしかりつると云がごとく、本願薫力のたきものの匂は、名号の衣に薫じ、またこの名号の衣を一度南無阿弥陀仏とひききてむ(称えて、こんな者をと受け取った)ものは、名号の衣の匂、身に薫ずるがゆへに、決定往生すべき人なり。大願業力の匂と云は、往生の匂なり。大願業力の往生の匂、名号の衣よりつたわりて行者の身に薫ずと云道理によりて、『観経』には、『若念佛者、當知、此人是人中分陀利華』と説なり。


 『西方指南抄(さいほうしなんしょう)』というのは真宗聖典にも収録をされていないのであまり馴染みがないかとおもいますが、これは源空聖人の法語・消息・行状など全28項の言行録を編纂したものです。
  親鸞自筆本は康元元年(1256)―正嘉元年(1257)の書写があり、類書に文永12年(1275)了慧編『黒谷上人語燈録』などもあります。西方指南抄には本書だけに収められた法語もあり、真宗高田派専修寺に親鸞自筆本と古写本(ともに国宝)があります。今回の法語の3つ目と4つ目は西方指南鈔からとなっています。

「たとへばたきもののにほひの薫ぜる衣を身にきつれば、みなもとはたきもののにほひにてこそありと云とも、衣のにほひ身に薫ずるがゆへに、その人のかうばしかりつると云がごとく」

 とあります。たきもの(焚きもの:お香を焚く事))の匂いが着物に移り、その着物を着て入る人がお香の匂いのおかげでその人自身がいい匂いになるということですが、わかりやすい喩えですね。この喩えは本願力と名号とその名号を称える者との関係を表しています。
 つまり名号を称える者は阿弥陀様のご本願のおはたらきがいつのまにか、自分の意思に関わらず自然に身に染み着いてくるということでありましょう。法然聖人のこのお言葉を親鸞聖人は書き留めておられ、しかも西方指南抄は親鸞聖人85才の時に完成させた言行録であるということですから晩年の親鸞聖人にとってもこれらの書簡やご法語に重要な意味があったのだろうと思われます。
 今回の法語の3つ目に

「この名号は、いかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に心をかけむとせざれども、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。」

 とあります。
 南無阿弥陀仏のお名号を称えるにあたりどのような心持で称えればよいのか、ということについて「乱想の中にも」というお示しをされています。称える者が何の理解もない中で「南無阿弥陀仏を称えよ」といわれるとその称え方や心持などに疑問を持つということは自然なことです。そこで法然聖人はお念仏のお謂れなどを思わずとも、乱れた心の内容であっても称えるべし、と仰るのですが、これもまた疑問の生れそうなお示しです。もしかしたら法然聖人に出遇われた頃の親鸞聖人もこの疑問を持ち、くぐり抜けてこられたのかもしれません。
 そして親鸞聖人が晩年になってもなお法然聖人のこのお示しをが法蔵菩薩の五劫思惟の願に適っていると、親鸞聖人ご自身が人生の中で確かめられたからこそこの言葉を西方指南鈔に残されたのではないかとおもいます。

 お念仏は私の心持を必要とはしません。私がどのような心で称えようとも、どのような場所で称えようとも、お念仏が変わるという事はありません。善い心でお内仏の前に正座をし姿勢正しく声高にお念仏しようとも、病気で寝込んでいる中でお念仏しようとも、ハイキングをしながら出るお念仏も、雑踏の中で出るお念仏も、出てくるお念仏に何ら違いはありません。
 それは法蔵菩薩がどんなに散り乱れた心を持っている煩悩具足の凡夫であっても、大変な修行を重ね皆から尊敬される聖者であっても、その口から出てくる一声のナムアミダブツは平等の慈悲に催されて、あまねく一切衆生を摂せんがために称名念佛をもって凡夫の上にあらわれる如来の大行であるわけです。歎異抄には「ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべし」と法然聖人のお言葉が伝えられています。そのような心持も必要とせず、ただ念佛申すばかりでたすけるとの大悲のお心を聞かせて頂くばかりであります。

ナンマンダブツ