2018年4月25日水曜日

念佛寺春永代経を終えました。

『念佛寺 春永代経』をお勤めいたしました。

 バタバタいたしましたが何とか最後まで滞りなく終えることが出来ました。
 今回の御講師はHPでご案内いたしたとおり西川和榮先生にお越しいただきご法話をたまわり、金沢弁が諸所に出てきましたが解説していただきながらのご法話で新鮮な心地でお聞かせいただきました。

「すべては阿弥陀様の業(わざ)です」と力強くお話しされておりました。

 来月は通常通り2日の念佛座談会を開催いたします。
どうぞご縁の方はご聴聞ください。
よろしくお願い申し上げます。

ナンマンダブツ

念佛寺


躑躅がちょうど満開でした

椿は終わりですね


西川和榮先生



 

2018年4月14日土曜日

寺報(お寺の新聞)をupしました。
 
 2018年のお寺の新聞を1月分から3月分まで載せました。

 紙ベースでは毎月きっちり配布しているのですが、こちらはいつも遅くなっております。
 ご感想などがございましたらメールにてお待ちしております。(もちろん電話も受け付けております)。

よろしくお願い申し上げます。


   念佛寺

2018年4月4日水曜日

4月2日 念佛座談会
 
今年の桜は開花が早かった影響でしょうか、例年よりも早く散りそうですね。
 
 今年は珍しく大阪城に花見に行って参りました(例年はお花見をしません)。多くの観光客でに賑わっていましたが、外国の方が桜の下で宴会を楽しそうにしているのは目を引きました。帰りには大阪城公園内にある『蓮如上人袈裟懸けの松跡』を横目に森ノ宮駅から甲子園口駅まで戻ってきました。

 さて本日は『松並松五郎念佛語録』から


○火事と自ら気付いて逃げ出す人もあり。火事と知らされて、逃げ出す人もある。火事だと呼ばれても、火の付いた家に気付かず、寝ている赤子もいる。平気で寝ている赤子を、抱きかかえて逃げ出すよりほかには助かる道はない。吾々は何と云われても火の付いた世界、火宅無常の世界と聞かされても、それを本当に気付かない。平気で暮らしているこの私に、阿弥陀さんが私にとび込んで来て下され、私を抱きかかえて下さる、其の御姿が、今現にこの口に聞こえてくださる。 南無阿弥陀仏


○三百六十五枚敷きの部屋に住んでいて、障子一枚も入れてない部屋ですき間風が寒いと言えばおかしいこと。障子・ふすまが入れてあってこそ、すき間風です。念仏懈怠とは念仏称えてござるお方のこと。称えさされているだけのこと。


○南無阿弥陀仏は真理中の真理。五劫の御思案、永劫の修行のあかつきに、出来上がった、成就されたものです。智慧の頂上、御慈悲の頂上である。ただ、ひたすらに聞くべきもの、頂くもの、従うべきもの、受けるもの。聞くとは用いること、随うべきものなり。


 今回は難しいですね。

 一つ目は味わいやすいように思いますが、最後の「其の御姿が、今現にこの口に聞こえてくださる。南無阿弥陀仏」がなかなかいただき難いのではないでしょうか。私たちの人生は常に脅かされています。それは火宅(煩悩に満ちた娑婆世界を燃え盛る家に例えた言葉)に居ながらもその状況にまったく気がつかず、いよいよ危なくなって初めて我が事として受け止める事ができます。
 
 しかし、気がついた時には既に身も心も焦がしているのもので、「あのとき気を付けておれば」と後悔して次は気をつけようとしますが、なかなか徹底できないものです。火事に気をつけれるものであれば火事は起こらないであろうし、私が罪悪の身であるという事を徹底できるのであれば、良い事をし悪い事をしないような生き方も可能でありましょう。ですが、火事だと呼ばれても気づかずいつまでも寝ている赤子のような私たちではないでしょうか。

 そのどうにもならない私を助けると阿弥陀様は仰るのですが、その姿が口から”聞こえる南無阿弥陀仏だと教えられます。一声のナンマンダブツは阿弥陀様の永劫の修行の末に成就なされた慈悲と智慧の頂上です。その一声をただ聞くばかり従うばかり受け取るばかりであると教えられているのです。

ナンマンダブツ ナンマンダブツ

次回の念佛座談会は12日です。










念佛寺永代経のご案内


先月ご案内いたしましたが、再度案内をさせていただきます。

日時: 4月22日(日曜日)

時間: 午前10時 お勤め お勤め終了後住職法話
           
             休憩 
 
             午後2時 お勤め  お勤め終了後御講師法話


持ち物: お念珠  お勤めの本(お寺にも用意してあります)



御講師案内

西川 和榮 さん

 大阪・堺市の主婦で歌人の西川和栄さんにお話頂きます。西川さんは、昭和八年のお生まれ。子どもの頃から金沢で、仏法の信心が深い人々に囲まれて育ち、子ども心に大人が語る仏様の世界の不思議さに疑問と同時に感銘を受けて、その後の生涯を子どもの頃抱いた仏の世界、人間の世界に対する疑問の解決に向かって精進努力を続けてきた方です。(宗教の時間より)