2017年11月15日水曜日

12日 念佛座談会

〇播州の老婆二人後生が苦になり、居ても居られずとて同心して御旧跡回りを思ひ立ち、先づ御本廟に詣し、京より來りぬ。四五日滞在聴聞して東に向ひぬ。七十日も過ぎて、或日の夕方、綿の様になりて我寺に着きぬ。さて曰く。「長い間御旧跡を巡拝し、廣く知識を尋ね歩いたが、なんでもなかつた。体はぐたぐたに疲勞てくる。持つてゐた財布は空になる。もうもうこの私はどうしてみても助からぬ、生れながらの盲人であつたと、今度は本復させてもらひました。」

〇法を聞くのが、聞く事と如来の御助けと別に思はるゝゆゑ、聞いては居れどそれほどに思はれぬと云ふ。淨土真宗の法は直に御助けにあづかるのなり。聞き開くと云ふ。骨折つて聞くと、さてはさうかと思ひとらるゝばかりで、疑ひはるゝと我力でないと知られる。それ故、いつどう聴聞してゐる内に疑ひはるゝかも知れぬ。聞くが直に御助けに預るの故、仰せが私の領解なり。 「我等はたゞ耳に聞く事に思へども、耳に聞くのが直に御法の宝を我身に御與へなり。無耳人に聞く耳を御與へぢや。」(師)
     
〇一日(あるひ)等覚寺を京都の寓に訪ふ。師曰く。 「聞くばかり。聞いて向うにあるものを取り込むやうに思ふは違ひなり。聞くばつかりと云ふことまことに尊い」 と歸路太助隠居の處に立ち寄り、此事を語りたれば、太助大いに驚き、 「えらいことを聞いてきなされたきなされた、私は今初めてゞある」とて、非常に喜ばる。衲惟うに、三十年來等覚寺に詣でゝ聴聞してゐる太助が、今初めてぢやと尊み喜ぶ相をみて、「信の上は何時もめづらしく初めたるやうにあるべきなり」とは、このことかと更に深く思ひつけり。      


今回は『求法用心集』より。

「聞くばかり。聞いて向うにあるものを取り込むやうに思ふは違ひなり。聞くばつかりと云ふことまことに尊い」

 ここで言う「聞いて向こうにあるものを取り込む」とは、教えを自分で解釈し理解し自分の考えを持つということです。教えを”掴む”ともいいます。
 
よくあるのですが、有名な先生のご法話などを聞いていると、その先生の意見などを聞き、自分で理解することが出来た事で教えを聞けたと思ったりします。「阿弥陀様の仰せ」と「先生の意見」を聞き分ける事が出来るのであれば何も問題はないのですが、先生の意見を阿弥陀様の仰せと聞くならば、少し問題があるように思います。
 先の師の言葉にもありますが、「耳に聞くのが直に御法の宝を我身に御與へなり」とあります。私に”直”に届いている阿弥陀様の仰せを聞くのが、「聞くばかり」ということで、いくら法座であっても先生の聞いた後の意見を聞き、自分で理解出来たということになるのであれば、それは聞いたという事にはなりません。先生の言葉ばかり追いかけて何十年聴聞を重ねても、結局のところ自分の解釈で握りしめた苦しい論理しか残りません。
佐々木蓮麿師が

「仰せが仏法である。聞いた心に用事なし」

と仰ったということです。
先生自身の領解はどちらでも良いのです。「~先生がこうおっしゃっていた。」などという事はどちらでも良い事です。

阿弥陀様の仰せ、私に直に届いている仰せ、それが仏法です。
私がどのように理解しようが感じようが、そんな事は何もいりません。
まして先生がどう領解しているかなど全く関係のない事です。

阿弥陀様はただ「必ず助ける」と仰せられているわけです。
阿弥陀様はどう仰っておられますか?

掴んでいるものが無ければ、仰せが私の領解となるのです。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ

※引用文に現代的に不適切な言葉が用いられておりますが、著者に配慮しそのまま転載しております。