2017年10月16日月曜日

12日念佛座談会

今回のテキストは『松並松五郎語録』より


世の人は、物事をひねって聞く。その時、人は言訳をする。そんな言訳はいらざること。言いさえせねばなんとも言わぬと、何時も自分をふり返る。ひねるから御法までひねって聞く。宗祖様の教、弥陀の本願即ち真宗の教えは、易中の易で、やすいのです。易いとは、向こうのままを聞く。聞くとは、太鼓の音を太鼓と聞くこと。それを遠い処から聞くと、太鼓の音かなーぐらいに聞いている。人が、太鼓とちがう、あれは他の何々の音やと言えば、そうかいなーとはっきりしない。我が目の前で太鼓がなれば、聞けば人が何と言うても狂わぬ。この南無阿弥陀仏は如何なる事かと、事の起こりを聞くと、(称えてござるお方に)仏願の生起本末を聞けば、もう狂わぬ。その後は念仏の道歩めばよいものを、道理理屈ばかり聞くから、本道へ出られ難い。    


 松並さんの言葉は平易な言葉で語られ、改めて解説することを必要としないものばかりです。
今回の言葉もそうなのですが、そのまま読んで読んだままいただけるのではないかとおもいます。

 最後の方に「仏願の生起本末」という言葉があります。この言葉はあまりよくわかりませんね。
これは親鸞聖人の『教行信証』(信巻)に


しかるに『経』に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。


という言葉の事であります。
 阿弥陀仏の本願は何故おこされ誰のためにどのように誓っておられるのか、という事になるわけですが、このままでは助かる縁すらない私を憐み、必ず助けると誓われナムアミダブツの名となり声となってくださった、ということであります。

 その名を聞く、名声(みょうしょう)を聞くのが「聞」ということです。ですので、生起本末の意味を知るということはもちろんですが、ナムアミダブツの声を聞く、ですから松並さんは「(称えてござるお方)」と仰っているのでしょう。仏願の生起本末を聞くという事もそうなのですが、仏法の道理理屈を聞く事を聴聞といいます。これは悪い事ではありません。

 しかし、お念仏の出ないお方の道理理屈”ばかり”聞いていると、「今」ナムアミダブツ、ナムアミダブツと私の口から出る声を聞かず、声を阿弥陀様と気付けず、知識的欲求の満足感にとどまってしまいます。
 ですので「(称えてござるお方)」というのは声の阿弥陀様に出遇った方、その方から「仏願の生起本末を聞け」ということになるのでしょう。
 我が目の前で太鼓はなります。
 ナムアミダブツとはっきりと聞こえます。
 私の口からはっきり聞こえるナムアミダブツは
 大悲招喚の御声であります。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ
  
次回念佛座談会は11月2日です。
難しい事はしていませんのでお気軽にお越しください。
お待ちしております。
            念佛寺