2017年6月4日日曜日

2日 念佛座談会

今回のテキストは『松並松五郎念佛語録』からです


・二十年悪い奴と知っても、吾々の知れたのは浅信と言うて、浅い信である。仏様は久遠劫来より三世に渡って、助からざる者と、見込んで助ける南無阿弥陀仏に成り給う。機と法とが一つの南無阿弥陀仏を頂けば、ある片面に我が機を照らし出され、ある片面にその者この機を助ける法を照らし出す。機(助からぬ)と法(助ける)、離すに離されぬ。南無阿弥陀仏を判り易く、二つに分けて御教化下されたのが、二種深信であります。私や、あなたが如何に知れたとて浅信、あさい信です。仏様は過去、現在、未来あい通じて、これから造る罪まで見抜いて、助からざる者と、仏様が、悪業のかたまりと見抜かれた事を深信と言うて、深い信である。其の者を救う、これが法の深信です。それが南無阿弥陀仏になりまします。南無阿弥陀仏を頂けば、頂くとは念仏申すこと、称えること、称えるままが悪い奴、助からぬ私やと言うている事でもあり(機の深信)、其の者を助けると言う呼び声でもあるのです(法の深信)。亦有り難うと歓喜でもあるのです。お礼にもなるのです。頼みもせぬに、私の知らない昔に、私の助けられる南無阿弥陀仏に成りまします、声の仏にてまします。生まれたままを助けるとある南無阿弥陀仏なるに。あなたに苦労させる、かける仏でない。苦労は親がして成就したもう南無阿弥陀仏を頂くだけ、称えるだけ、頂くだけ。呼び声なるが故に、口に現れ給う念仏を聞くだけ。


 『松並松五郎念佛語録』をテキストとして座談会を開いているわけですが、ちなみに「松並松五郎」という方は僧侶ではありません。
  HPの『松並松五郎語録』の最後に氏の紹介などを載せてあるので一度見て頂ければよいのですが、僧侶でも学者でもなく、小学校中退後工場の職人として働きながら御聴聞され、お念仏に心を開かれた方です。

 松並さんのようにお念仏をよろこぶ方を「妙好人(みょうこうにん)」とも言いますが、そのような方が僧侶や学者ではない在家から出てくるのが浄土真宗の大きな特徴ともいえます。妙好人に関しては多少表現や行動について過大に表現されることもあり多少の批判もあるようですが、仏様の御心をいただく手がかりとなる言葉も沢山あり、妙好人の言葉の方が現代の学者・僧侶よりもすっきりいただけるという事もあります。松並さんや妙好人の言葉にも触れて頂ければと思っております。


 前置きが長くなりました。今回は前回同様のテキストですが、非常に大事な事が記されております。
「なかなか自分の悪を知ることが出来ません」、「地獄に落ちるべき身でありならが本心からそのように思えません」という様な質問が座談会ではよくありますが、松並さんも同類の質問を度々受けていたのでしょう。
 それに対して「吾々の知れたのは浅信」と言っておられます。自分が知る自分の姿というのは都合の良い程度でしか知る事はできません。自分は自分の事を必ずどこかで肯定しているものです。
 ですので「機の深信」というのは「私が決して助からない人間だと思いました」という様な事ではなく、阿弥陀様が私を「助からざる者」と決定(けつじょう)していることなのです。南無阿弥陀仏がお知らせくださるのは分けて二つの側面(助からざる機)(助けるの法)であり、それが二種深信ということであります。改めて「悪い奴でした」と思わなくてもナンマンダブツと称えている事が「悪い奴でした」といただいている事にもなるのです。深信はもともと南無阿弥陀仏にあるものです。

何度もいただくべき言葉であると言えましょう。
ナンマンダブツ