2017年5月3日水曜日

2日 念佛座談会

今年は玄関前のヒラドツツジが沢山花をつけました。
去年は軍配虫の影響かわかりませんが、あまり咲かなかったので今年もどうかと心配しておりましたら、その心配を余所に見事に咲いてくれてくれました。

さて、今回の座談会は参加者の方から「易往而無人」についての質問があり、他の参加者共々考えてみました。

「易往而無人(いおうにむにん)」とは”阿弥陀仏の本願力によるから、本来浄土に往生する事は容易な事であるが、自力の心をすてて真実信心を得る人が少ないので、浄土に生まれる人がすくない”と、大体こういうお心になります。自力の心、つまり自分の思っている心なのですが、阿弥陀仏の仰せよりも自分の想定しているような解決方法などを頼りにしているということです。

 自分の中で自分なりの解決法を持っているのであれば阿弥陀仏の救済を受け入れる事はありませんが、本当に阿弥陀仏を憑(タノ)むのであれば、疑いなく慮りなく受け入れる事の外、何もありません。浄土に生まれる人が少ないというのは、それほど自分を頼りとしているのだということでありましょう。


今回のテキスト

・〈お念仏の御縁にあう〉と言う事は、乞食が億万長者になったより、まだまだえらい事や。この仕合わせを得させて頂いた事を、それ程にも喜ばん。これは如何なる事かと思いながら床に着いた。夢に「朝顔や その日その日の 風まかせ 南無阿弥陀仏」と出た。なるほど、こんな者が嬉しいと思っても、思わなくとて一緒や。私の心は阿弥陀様の方には、勘定の中に入っている。私は私のまま南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、それでよいのに、私が承知せぬだけのこと。何か変わり目が見たいのが、私等の心、それはいらざる事や。  

・江州大浜の吉右衛門の老婆いわく。  この婆々は一生涯信心がえたいえたいと願いましたけれど、信心与えると、この婆々は怪我すると思召し、とうどう今日まで信心与えて下さらなんだ。まるきり助けられねば参られぬ婆々であったと、御助けに逢わせてもらいました。


理解は必要ありません。
そのまま味わってみてください。

ナンマンダブツ ナンマンダブツ




半々ですね


暫く楽しみます