2017年3月17日金曜日

12日念佛座談会

まず、本日のテキストです。


・如来永劫の修行を全体施名として名に体の徳を全うして施す法なれば百千音声の法なり。音声の法なれば、六字の謂われをききひらくなり。六字の謂とは助け上手をきくのなり。

・しかしきくと雖も、声と言葉は心の使いゆえに、声にはなれ言につかず、聴聞にわかれ弥陀のこころを知る一つ。知る一つを知るにあらず、知れた心に目をかけず、信心の功をみず、所信の法功を知る一つ。


どちらも香樹院徳龍(こうじゅいん とくりゅう)師の言葉です。
 念佛寺の座談会は先哲の語録をテキストとし、そのお心をたずねしていきます。真宗は仏法聴聞という事に尽きるわけですが、何を聞くのかというと本願のお心に他なりません。本願のお心を受け取り、受けとめたままを念佛の仲間を話し合うのが座談であります。自分の都合にあわせて聞くのは簡単なことですが、それはあくまでも自分の思いであり本願のお心をそのままにいただいているわけではありません。

 自分では気が付かないものですが、その通りに受け取っているようであっても自分の主観や疑いを起しているものです。座談の場では自分の主観や疑いを知る機会でもあり、お育ての場でもあります。お聖教や先哲の言葉が素直に受け取れないの当然の事です。初めから素直に受け取れない程、私たちの疑い心の根は深く自分の力で断つ事が出来ないと知らされるものです。

 しかし、それを放置するのではなく自分の課題としていく中に仏道の歩みというものがあります。
 香樹院師の「六字の謂われをききひらく」ということですが、主観的であっても疑いを離れることが出来なくても、まず声となり音となって私に届いているナムアミダブツに親しみ、そのお心を聞き続けることか肝要となります。
 これは理知分別的に解釈するのではなく、現に私に届きはたらいている阿弥陀仏との直接的具体的出遇いでもあります。それには私の心には少しも用はありません。私がどう思うかではなく徹底して阿弥陀様が私にどう仰っているのかをお念仏に聞いているのです。

ナンマンダブツ

3月22日は念佛寺彼岸会です。