2017年2月28日火曜日

松並松五郎語録より

仏教には三業(さんごう)という言葉があります。
 わたしたちの行うすべての行為を三種類に分類し、それぞれに身業(しんごう:身で行う行為)、口業(くごう:口で言う行為)、意業(いごう:こころのはたらき)と言い表しています。わたしたちはこの身口意の行為によって様々な結果を受けていくわけですが、善い行いは善い結果を得ることが出来るというのは仏教の基本的な考え方で、世俗に対しても出来うるだけの善い行いを求められてもいます。

 その中でも十善という十種類の善なる行為があります。
その内訳は不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不両舌・不悪口・不綺語・不貪欲・不瞋恚・不邪見とあります。お気づきの様に「不」がそれぞれについています。

 不殺生なら「殺さず」ということで、どちらかというと戒められている言葉になっておりますし、特に戒として表す場合は十善戒という言葉で言い表しています。
また、それらに対して十悪という言葉があります。

 先ほどの十種類の善なる行いから「不」を取り除くと十悪になるわけですが、わたしたちが行う悪い行為の代表格のようなものであると言えましょう。
 これらの行為を引き起こさないような生き方が望まれるわけですが、その実現は人と人の関わり合いの中で生きているわたしたちには非常に困難です。

 反対にこれらの行為を起こしたにもかかわらず自分の非を認めず正当化していくような生き方をしてしまうほど、わたしたちの悪業の根は深いものです。
 
わたしたちの正当化は自己保身ということもありますが、自己拡張の為に正当化していくこともあります。その為に嘘をついたり誇張したり、時には人を貶めたりと口の行為というのはなかなか厄介なものですが、申し訳なく思う一方で汚い言葉や悪口などを好んで使うのもわたしたちの一つの可能性なのでしょう。
 
「鼻は香りのよい物を好む。口はきたない物、愚痴や、悪口を好む。こんな口から念仏が、仏様が出て下さるとは、南無阿弥陀仏。」
 

松並松五郎さんの言葉です。
 世間では日々充実した毎日を送り、社会で活躍し、輝きに溢れているような人間像を理想としています。
 しかし、自分自身がその理想的な人間像を実現する為には嘘をつき、飾り、時には自分の優位性を保つために他者を罵りもします。そしてこの口は、他者を傷つけ悲しませるのですが、何より自分自身が傷つき悲しみ暗く身を滅ぼしていく事であると知らされます。

ナンマンダブツはこの口から出てきます。
 
不思議な事実なのですが、われらの罪悪の深きほどを思い知らせ如来の恩徳のたかきことを知らせ助ける為にわたしに届き口に現れているのです。
 
普段はどうにもならない言葉ばかりが出てくる口ですが、
「必ず助けるぞ」と「仏様」が出てくる口であります。

 口に出て「ナンマンダブツ」と聞かせれは、必ず煩悩悪業に身を滅ぼすわれらを必ず助ける事が出来るという仏様の声を
ナンマンダブツ、ナンマンダブツ
 と聞かせて頂き、大悲のお心をいただくばかりであります。
ナンマンダブツ








2017年2月20日月曜日

春 彼岸会のご案内

梅花の時期になり、寒さも少し和らいできました。
来る3月22日に 念佛寺春彼岸会 を執り行います。

「冬夏(とうげ)の両時をとらず、ただ春秋の二際を取る。その日正東(しょうとう)より出でて直西(じきさい)に没す。弥陀佛国は日没の処に当たりて、直西十万億の刹(せつ:国土・世界)を超過す。」

これは春分秋分に真西に沈む日に西方浄土に生まれる事を観るという観法です。ですが私たちが行うには簡単なことではありません。西も東も、正も邪も、優も劣も、わたしたちは分かっているようですが、その根拠をたずねると不確実な自分の思いを基にしているものです。
 
 自分の主観を頼りに浄土を考えるのは此岸の出来事ですが、自分の主観を超え、本当の浄土に生まれるのは彼岸からの呼び声によるものです。ナンマンダブツのお念仏は彼岸から届いてくる「必ず浄土に生まれさせる」の大悲のお言葉であるといただくばかりであります。

 真宗門徒の彼岸会は、彼岸よりわたしに届き、口から出てくる「ナムアミダブツ」を聞き阿弥陀様のお心にふれる大切なご縁であります。

ナンマンダブツ


日時:3月22日(水)

時間:午後2時~4時 
(2時よりお勤め、終了後休憩を挟み住職法話)

持ち物:お念珠 (お勤めの本は用意してあります。)



どなたでも参加できます。
駐車場はありません。車でお越しの場合は周辺駐車場をご利用ください。
質問等ありましたらHPよりメールか電話で問い合わせてください。
急な変更がある場合はブログで案内いたします。

              
  念佛寺












2017年2月16日木曜日

12日 念佛座談会


12日の念佛座談会。いつも通りお念佛を称え聞く事から始まり、そして座談を行います。
今回もいつもと同様に資料を用意していたのですがそれには触れず、それぞれに抱えている疑問や質問を聞きそれぞれ思うところを発言していただきました。毎回様々な内容の疑問や質問が飛び出してきますが、 それらは一見すると個人的な問題のようであっても、誰かと共有している事があります。
 ですので他者の発言であってもよくよく聞かせて頂かねばなりません。しかし、まずは発言するという事がなければ何も出てきません。蓮如上人は


蓮如上人、仰せられ候う。「物をいえいえ」と、仰せられ候。「物をいわぬ者は、おそろしき」と、仰せられ候う。「信不信、ともに、物をいえ」と、仰せられ候う。「物を申せば、心底もきこえ、また、人にもなおさるるなり。ただ、物を申せ」と、仰せられ候う由候う。 (蓮如上人御一代記聞書)



と仰せになれました。
「物をいえいえ」と、そして「物を申せば、心底もきこえ、また人にもなおさるるなり。ただ者を申せ」と仰いました。

 お寺の座談の場というのは、お互いの信頼により成立している場でもあります。
ですので、基本的にどのような発言をしても構いません。しかし、その発言もまた「人にもなおさるる」(人に直してもらう)ものでもあります。

 座談会に参加している方は様々ですが、自分と同じような事に疑問を感じている方、或いは克服された方がいます。
 その方々の話に耳を傾ける事で修正されることも多く、また自分の経験などを語ることによって何かを得る方もおられます。これは読書などでは決して得る事の出来ない経験です。

「物をいえいえ」

座談会はこの言葉に始まります。


ナンマンダブツ







2017年2月10日金曜日

求法用心集を味わう


「ぼんうは決定して沈むなり。佛は決定して助け給ふなり。盡未來際つきぬけ堕ちゆく身、久遠劫來つきぬけ助ける助けるの大願心。どちらも無限無際、恐ろしいとも頼母しいとも、願力回向、他力回向なればこそ、たゞ本願力を拝む外なし。」(求法用心集)




人間は多くの事を進展させてきました。
生活環境や先端技術など多方面においてその進歩がみ見られ、
50年ほど前には考えられないような事を先進世界の人は当たり前にやってのけるようになっています。


安心や安全という事で言えば、例えば水道の蛇口から出てくる水を取ってみても昔と比べれば安心して飲むことが出来ます。
また、住宅は機能的な安全設計がなされていたり、その配慮も格段にされるようになりました。
わたしたちを取り巻く環境の多くの事柄に進展がみられるわけですが、それでもわたしたちは決して満足しているわけではありません。
満足出来ない故に発展し続ける事に光も見出そうとしているのでしょうが、何を満足させたら良いのかさえ知らずにいます。



「一つには決定して深く、『自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、嚝劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし』と信ず」(散善義)



われらは永劫に流転つづけ、出離の縁すらないという事を深く受け止めなければなりません。
何の根拠を持たない安心感に満足している平生が如何に妄想妄念に沈んでいるか、どれほど長い時を流転しつづけ業苦を受けてきたか、われらの眼は煩悩が障りとなり、我が身の有様をありのままに観る事が出来ない故に、この言葉が簡単に響きはしません。

 しかし、法蔵菩薩が一切の衆生を救うに仮令この身を苦しみの中に沈め永劫に浮き上がることが出来なかったとしても、最後の一人まで救うまではそこに留まり続けるとの大悲の願心を起された背景を知る時、一切衆生が罪悪生死の苦海に沈輪しているのだとその悲しみに於いて知らされてきます。


罪業の苦海に沈み続けるわれらを、最後の一人まで「必ず助ける」誓った法蔵菩薩。
われらの罪業も阿弥陀仏の大願心もどちらも底なしで無限無際であり、われらを限りなく摂取し決して捨てないはたらきを「阿弥陀(無量寿無量光」と名付けられ、名となり声となってわれらに届き続けています。


「ナンマンダブツ」口に現れ出ている願力回向された本願の行は、常に沈み出離の縁なきわれら一切衆生を救済せねばおけない如来の大悲心の具体的顕現であると知らされ、摂取不捨の大悲心を疑いなく受けとる信心において浄土に生まれると約束されているのであります。











2017年2月4日土曜日

2日 念仏座談会

今回のテキストは『香樹院語録』より


「帆を揚げて帆を揚げて航ぎ行く船に乗れば、岸が移るようなれども、岸の移るではない、舟の動くのじゃ。いま我々が、妄念悪業の水の動くときは、是れでは如何あるらんと、疑いの心を起すものもあらうが、たとい妄念悪業が起ればとて、摂取不捨の御約束の山は動きはせぬ。」


「吾々が身体と生命とは、時々刻々に未来未来と行くなれども、心一つは死なぬ死なぬと思う。大邪見なり。


 上の二つは香樹院師の言葉ですが、言わんとしている事が全く分からない、あるいは何となくわかるという方もおられましたが、その中でお互いに受け取ったことを話していただきました。

二つ目の言葉は非常に厳しいお言葉です。
この言葉の通りなのですが、身体や生命は刻々と死に行くものです。しかし、わたしたちの心は「まだ大丈夫だ」とか「あと10年は生きている」と思っているものです。そのようなわたしたちは「死」を普段から意識することがなかなかできませんし、死ぬような体験もよほどのことが無い限りできるわけではありません。では、どのようにしたら「死に行く存在」であると意識する生き方が出来るのかというと、実は聞法していくということが「死に行く存在」であるという事を確認する場なのです。
 日常生活は「まだ大丈夫」とか「元気が一番」ということだらけで「あなたは死にます」などと一言でも言えば嫌な顔をされます。聞法の場は「あなたは死にます」と本当の事は言いますが、「健康が一番ですよ」とは言いません。つまり「死」するという本当の事を繰り返し巻き返し教えてもらい、その死を自分の力ではどう足掻いても免れる事が出来ない者であるからこそ阿弥陀様が「必ず助ける」と仰っているのです。そこを何度も聞かせていただくのです。

ナンマンダブツ

次回は2月12日です。