2016年10月6日木曜日

『香樹院語録』に聞く

「信仰と理性というのはお互いに相反するもので、理性を入れるたびに信仰は死んでしまうんです。信仰が強くなってくると理性が死んでしまいます。ものすごく性質が違うんです」
とスマナサーラ長老。

ここでいう理性は概念的論理的に事象を考察判断することという事でありましょうが、信仰が強くなってくるとそれが死んでしまう、つまり理性が役に立たなくなるということでありましょう。何の根拠も持たない事を信じているという事が信仰ということなのでしょうが、この両者は基本的に性質を異にしているということであります。

普段わたしたちは理性的な事を求めています。論理的整合性が確かめられたことを是とし、そうでない場合は非としています。
それが悪い事ではありません。寧ろ、そうでなければ人間関係や社会の秩序といったものは忽ち破たんしてしまいます。

そのような立場から信仰を見ると、到底理解できるものではありません。「奇跡」や「不思議」などというものは、何の世間的論理の根拠を持っていないといえますし、一部の支持者の中で根拠と成りえたとしてもそれが世間一般な通念となりえません。

ですから世間では理性を求めてそれを身に着けて生きていく事が自分も周りも納得しやすい生き方となるのでしょう。

では、そのような理性というものが正常に働くのかというとそうでもないようです。

「自分の主観によって理性は壊される」ということがあるようで、私たちは、いくら論理的なことを突き付けられたとしても自分の主観を優先し突っぱねてしまう場合もあります。
結局のところ理性的な生き方を実現するには自分の意思、感情などをコントロールする必要があるということです。

物事を理性的に判断できれば人間として素晴らしくなるということもあるかもしれません。
しかし、私たちはやはりどこまでいっても「邪見驕慢」な存在ではないでしょうか。

邪見の故に世間の論理を絶対とし
驕慢故に、身に着けた論理で人を見下す。

「正しさ」という着物を一旦身に着けてしまうと、
簡単に脱ぐことはできません。
いくら自分の正しさに疑問を持ったとしても、
すぐに手放せるような素直さは持っていません。


『香樹院語録』に

「江戸淺草御坊(ごぼう)にて、安心(あんじん)のことに就(つ)き、僧侶より何れが正しきや正しからざるやを、御尋ね申し上げたれば、仰せに、褄(つま)の上り下りは、着物着た上のことじゃ。裸体(はだか)の乞食に其の議論はないぞ。 との御一言にて、みなみな感じまいらせぬ。」

「褄(つま)」とは着物の裾の両端の部分の事です。
自分の身に着けた知識が正しいのか、そうではないのかを問うています。
しかし、経典に説かれている趣旨を知的理解したところで

「ああ、そういう意味ですか」
「わかりました」

ということしか出てこないでしょう。


親鸞聖人は『教行信証』に

「爾れば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、是の徳海にしくなし」(このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすい真の教えであり、愚かな者が往きやすい近道です。釈尊の説かれた教えの中で浄土の教えに及ぶものはありません)

と仰っています。

「愚かな者が往きやすい近道」ということは、裏を返せば自分なりの知的理解は真(まこと)の教えを信受する遠路となってしまうという事になります。
自分の心に引き回され、惑わされ、すぐに不安に陥り、じっとして居れないのが私たちの心の有様です。

そういうものだからこそ阿弥陀仏はをそのまま「必ず助ける」と仰せになられているのです。
すべて仏教を理解し、きれいな心になったら助けるというのであれば、もう人生の時間はありません。

「そのまま助ける」というのは愚鈍の我らに与えられた阿弥陀仏の大慈大悲心なのであります。

ナンマンダブツ