2016年10月25日火曜日

『安心小話』に聞く

 仏教はどこまでも自己の実態、つまり常に移ろいゆき遂には死にゆく身である事を見つめ、そのような存在である自己を認めていくべきであると考えるものです。

私たちは年を取り、老い病み、死んでいく存在であるという事は一応に理解はしています。しかし、本当のところは老い病んでいく自分のすがたを見て嘆きはすれども

「仕方がないな」

と自分に言い聞かせ、理解をしているようですが、その理解ほど明白に老病死の事実を受け入れているわけではないようです。

 私たちは自分の生老病死(しょう・ろう・びょう・し)の事実を横目に見ながら日々の生活をもっと向上させたいという欲求において諸所に多忙を極め生きています。

それは誰よりも自分の事、地位や名誉、財産などが大事と思っているが故のことですが、そのためにお金や健康、人間関係などの外的事情に神経を使わなくてはならず、その生き方こそが人の生き方であると肯定しつつも同時に、しんどさ、辛さというような不安不満を感じてもいます。それでもお金を蓄え健康を維持していくことこそが幸福のバロメーターとなり、その内容が充実すればする程、幸せな人生であると思っています。

 その様な自分の欲求に惑わされた幸福を追求するような生活を何年何十年と送ったとしても老いは待ってくれず、病にも蝕まれ、いつか必ず死にます。しかし、何らかのきっかけがない限りそれらは私を悩ますものにはなりません。老いてゆき病になり死んでいくことなど、幼子でも知っている事で今更驚くほどの事ではないとさえ思っていたりもしますし、理解はしているのですが実感としてなかなか顕れてこない事でもあります。


「昼夜は過ぎ行き、生命はそこなわれ、人間の寿命は尽きる。・・・小川の水のように。」

 
 『ウダーナ ヴァルガ』にお釈迦さまがふと感じた事を言葉にしたものとして伝えられますが、川の流れや季節の移ろいなどから人生を顧みるというのは私たちにも非常になじみのあることです。時折そのような場面に出くわすことがあります。
 
 例えば子どもの頃に友人と遊んだ公園や小学校の傍を通ると昔の思い出も蘇りますが同時に年月の経過も感じたりするものです。「いつの間にか」とはよく言いますが、いつの間にかそれだけの年月が経ってしまっているという事に驚かされますし寂しさもありと、複雑な感情が湧き起こったりします。

「今年ももうすぐ終わりますね」
「1年あっという間ですね」

自己実現の為に多くの歳月が流れている事に自身では気が付きにくいものです。しかし、状況や環境の変化、あるいは季節の移ろいなどが人生を投影する時は自己を問う機縁にもなります。
『安心小話』に
   

  「一日たった二日たった三日たった      
  たったたったとたったいましぬ    
  たった今おしかけてくる火の車      
  弥陀たのむより逃げ道はなし」


1年経った、2年経ったと言っているうちに死ななければなりません。
死は「いつか」の問題ではなく「今」の問題です。

「今」生死を離れる一大事を問題にすることが出来なければ、
何年何十年経とうが問題にすることはできず、虚しく死を迎えなければなりません。

「自分はそこそこ満足している」と思っている自分が一番脆く壊れやすく不安の原因であると如来様は教えてくださいます。

不安を根本に持ちながらも誤魔化し生きている私に、

「そのままでお念仏申しなさい。必ずあなたを助ける」

と念佛となって届き続け、自力が如何に非力で生死解決の力を持ち合わせていないことを知らせ、
弥陀をたよりとし、出離する事が私の本当の幸せであると知らせてくださっています。


「諸々の欲望には患いのあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」


とお釈迦様は語ります。
そして、出離安穏の道を親鸞聖人は法然聖人より

「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」

といただかれました。
「たったいましぬ」わたしに「今ここで」出会ってくださる阿弥陀様は名となり声となって呼びかけてくださいます。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ

真実の言葉に出会う事が生死解決であり、
「ナンマンダブツ」の阿弥陀様との出会いが、
本当の幸せなのです。