2016年9月5日月曜日

『南無の釋』に聞く

「南無と云ふは、きいたり考へたりした佛が似非(にせ)者(もの)で、きかぬさきの如来様に助けて戴いた心なり即ち不可思議光に助けていただいた心なり 」 (南無の釋)


自分が聞いた事や感じた事が何時の場合でも必ずしも正しいとは限らないと、
誰しも人生の中で経験している事でしょう。
それが分かる時は、自ずと判断出来るという事もあるでしょうし、
他人から指摘されてわかるという事もあります。

しかし、どちらの場合に於いても全面的に自分は間違いであった、と言う事は非常に困難な事です。

やはりどこかで他人や環境の責任にしては自分の考えや立場を守っているものです。
しかし、それが悪い事であるかというと、それも簡単な事ではありません。

というのも、そもそも何が善くて何が悪いという善悪の判断は非常に難しく、古来より知識者や哲学者であっても頭を悩ませたものでありました。
親鸞聖人ご自身も

「是非(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利(みょうり)に人師(にんし)をこのむなり」 『正像末和讃』


我々に正しい善悪の判断はできるのか。
親鸞聖人はご自身の事を「邪正もわかぬ(分かぬ)」と仰っておられます。

「私は善悪の判断くらいできる」

と言いたくなるかもしれませんが、

自分が間違っていた、という事を知るという事が大変困難であると同時に、
「私は正しい」と言い切るのも非常に困難な事であると言えるでしょう。

いずれにしても私たちの考えや判断はいつも不安定で「まこと」と呼べるようなものは何もなく、
そのような者がきいたり、考えたりした佛が「似非(にせ)者(もの)」であり、
それは如来様の仰せを信じたという事ではなく、ただ自分の考えや思いに当てはめただけに過ぎないのです。

私たちが思議する以前に如来様は「必ず助ける」と仰せくださいます。
その仰せをただ聞かせて頂くばかりであると、教えてくださっています。

ナムアミダブツ