2016年9月15日木曜日

『松並松五郎念佛語録』に聞く

「なんとかなるだろう」と思う事は日常の中でよくある事ですが、
何か根拠があったり確信できるような事が無かったとしても、
「何とかなるだろう」と思う事があります。
「あそこに行けばなんとかなるだろう」
「あの人に頼めばなんとかなるだろう」
「あの電車に乗ればなんとかなるだろう」

と、様々な場面で「なんとかなる」と思っていたり、口に出したりしているものです。

「何を根拠にそんな事が言えるのか」

と言いたくなるわけですが、今までに「なんとかなった」という自分自身の直接経験や、
あるいは、そのような話や場面を媒体などを通して見たり聞きたりしたという事があるのではないでしょうか。


自分以外の不確実な事を信じてどうするのか、という批判も出てきそうですが、
総てを自分自身で経験した結果を判断の根拠にするとなるとまったく身動きが取れず、何も出来ない生き方になってしまいます。

それではあまりにも都合が悪い為、多少不安不信であっても自分自身の経験や判断を「信じて」1歩踏み出します。

その結果としては、自分の想定内に収まる事もあれば、想定を超えた事になるという事もありますが、いずれにしても自分の思慮分別に自分自身が振り回される生き方であるには変わりありません。 『松並松五郎念佛語録』に


「説教お聞かせに頂かれば、何とかなるであろうと、思うのは、機のかいかぶりである。何ともならぬ 南無阿弥陀仏。」


とあります。

「何とかなるだろうと、思うのは、機のかいかぶりである」との事ですが、
「なんともならん」とはなかなか思わないものですし、
どこかで自分の能力や経験を信じています。

しかし、そのような心で仏法を聴聞しても、何ともなるはずがありません。

「説教お聞かせに頂かれば、なんとかなるだろうと」というような、自分の予定している心、あるいは妄念を抱いたままの心では、
なんともなりません。それは仏法を信じているのではなく、今まで何ともならなかった自分を信じているに過ぎないからです。

いくら「私は本当に仏法を信じています」と言ってみても、信じていると思っている自分を信じているに他ならないのです。

無量劫を生死流転したそもそもの因は自力を信じた事にあり、
邪見や驕慢心を到底捨てる事のできない者であるからこそ阿弥陀様は

「我が名を称えよ、必ず助ける」

と仰せられるのです。
説教を聞いたとしても何ともならない私であるからこそ、この生死の一大事は阿弥陀様の仰せを聞き受ける他に解決の道は何ないと、教えられるばかりであります。

ナムアミダブツ