2016年9月23日金曜日

念佛寺 「秋彼岸会」

彼岸花も咲き、いよいよ秋の気配を感じるようになりましたが、このところの台風は各地に被害をもたらし、多くの方が被害に遭われました。痛ましい限りでございます。

本日は「念佛寺 秋彼岸会」でございました。
ここ数日は雨ばかりでしたので、1時半を過ぎたあたりから予報通りの雨となりました。

本日は彼岸会ということで、まず皆でお勤めを行った後に住職の法話となりましたが、
彼岸会という事で特別に法話をするというようなことはございません。
いつもの人がいつもする、いつもの話でございます。
しかし、この事が聴聞する上で一番肝要な事です。

いつもバラバラな話を10年20年聞いたところで、結局何の話なのか分からないままです。
わたしの真実、つまり阿弥陀様が私にどのように仰ったかという事をとことん聞かせていただくだけです。

「何が真実の言葉なのか、一つだけ覚えといたらいいのです」


ナムアミダブツ ナムアミダブツ


2016年9月15日木曜日

『松並松五郎念佛語録』に聞く

「なんとかなるだろう」と思う事は日常の中でよくある事ですが、
何か根拠があったり確信できるような事が無かったとしても、
「何とかなるだろう」と思う事があります。
「あそこに行けばなんとかなるだろう」
「あの人に頼めばなんとかなるだろう」
「あの電車に乗ればなんとかなるだろう」

と、様々な場面で「なんとかなる」と思っていたり、口に出したりしているものです。

「何を根拠にそんな事が言えるのか」

と言いたくなるわけですが、今までに「なんとかなった」という自分自身の直接経験や、
あるいは、そのような話や場面を媒体などを通して見たり聞きたりしたという事があるのではないでしょうか。


自分以外の不確実な事を信じてどうするのか、という批判も出てきそうですが、
総てを自分自身で経験した結果を判断の根拠にするとなるとまったく身動きが取れず、何も出来ない生き方になってしまいます。

それではあまりにも都合が悪い為、多少不安不信であっても自分自身の経験や判断を「信じて」1歩踏み出します。

その結果としては、自分の想定内に収まる事もあれば、想定を超えた事になるという事もありますが、いずれにしても自分の思慮分別に自分自身が振り回される生き方であるには変わりありません。 『松並松五郎念佛語録』に


「説教お聞かせに頂かれば、何とかなるであろうと、思うのは、機のかいかぶりである。何ともならぬ 南無阿弥陀仏。」


とあります。

「何とかなるだろうと、思うのは、機のかいかぶりである」との事ですが、
「なんともならん」とはなかなか思わないものですし、
どこかで自分の能力や経験を信じています。

しかし、そのような心で仏法を聴聞しても、何ともなるはずがありません。

「説教お聞かせに頂かれば、なんとかなるだろうと」というような、自分の予定している心、あるいは妄念を抱いたままの心では、
なんともなりません。それは仏法を信じているのではなく、今まで何ともならなかった自分を信じているに過ぎないからです。

いくら「私は本当に仏法を信じています」と言ってみても、信じていると思っている自分を信じているに他ならないのです。

無量劫を生死流転したそもそもの因は自力を信じた事にあり、
邪見や驕慢心を到底捨てる事のできない者であるからこそ阿弥陀様は

「我が名を称えよ、必ず助ける」

と仰せられるのです。
説教を聞いたとしても何ともならない私であるからこそ、この生死の一大事は阿弥陀様の仰せを聞き受ける他に解決の道は何ないと、教えられるばかりであります。

ナムアミダブツ




2016年9月14日水曜日

秋 彼岸会 のご案内

 暑さは一段落したところでありますが、次から次へと発生している台風に悩まされます。皆さまはいかがお過ごしでしょう。

 さて、今月22日は「秋 彼岸会」がございます。


「念仏寺HP」や「寺報」などでも案内しておる通りでございますが、

日時:9月22日

時間:午後2時~4時頃

場所:念佛寺

法話:住職

持ち物:お念珠・お勤めの本(お寺でも用意しています)


となっております。
お勤めを終了後、住職の法話となっております。
「阿弥陀様が私に対してどう仰っているか」という肝心要を聞くのが聞法です。
お待ちしております。

ナムアミダブツ


               念佛寺













2016年9月5日月曜日

『南無の釋』に聞く

「南無と云ふは、きいたり考へたりした佛が似非(にせ)者(もの)で、きかぬさきの如来様に助けて戴いた心なり即ち不可思議光に助けていただいた心なり 」 (南無の釋)


自分が聞いた事や感じた事が何時の場合でも必ずしも正しいとは限らないと、
誰しも人生の中で経験している事でしょう。
それが分かる時は、自ずと判断出来るという事もあるでしょうし、
他人から指摘されてわかるという事もあります。

しかし、どちらの場合に於いても全面的に自分は間違いであった、と言う事は非常に困難な事です。

やはりどこかで他人や環境の責任にしては自分の考えや立場を守っているものです。
しかし、それが悪い事であるかというと、それも簡単な事ではありません。

というのも、そもそも何が善くて何が悪いという善悪の判断は非常に難しく、古来より知識者や哲学者であっても頭を悩ませたものでありました。
親鸞聖人ご自身も

「是非(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利(みょうり)に人師(にんし)をこのむなり」 『正像末和讃』


我々に正しい善悪の判断はできるのか。
親鸞聖人はご自身の事を「邪正もわかぬ(分かぬ)」と仰っておられます。

「私は善悪の判断くらいできる」

と言いたくなるかもしれませんが、

自分が間違っていた、という事を知るという事が大変困難であると同時に、
「私は正しい」と言い切るのも非常に困難な事であると言えるでしょう。

いずれにしても私たちの考えや判断はいつも不安定で「まこと」と呼べるようなものは何もなく、
そのような者がきいたり、考えたりした佛が「似非(にせ)者(もの)」であり、
それは如来様の仰せを信じたという事ではなく、ただ自分の考えや思いに当てはめただけに過ぎないのです。

私たちが思議する以前に如来様は「必ず助ける」と仰せくださいます。
その仰せをただ聞かせて頂くばかりであると、教えてくださっています。

ナムアミダブツ




2016年9月2日金曜日

2日 念佛座談会

まだまだ暑い日が続いております。
8月の念佛座談会は12日を休会としているために、久しぶりの念佛座談会となりました。

 今回は座談会ではありましたが所謂座談会はなく、住職の法話ということになりました。「南無阿弥陀仏の救い」という事でのお話しでした。
 内容は日頃念佛寺の法座に参られている方々は何度も何度も聞かれた内容ではありますが、やはり何度も何度も同じ筋の話を聞かねばなりません。いつもバラバラの内容を聞いて20年過ごしたとしても、結局のところ阿弥陀様が私にどう仰せになっておられるのかサッパリ分からないものです。
 ということで内容はいつもと変わらず、浄土真宗の利益は「摂取不捨」だということを夢告和讃を紹介しつつその内容に入っていきました。
 法話ということでしたので、解説などは控えますが、阿弥陀様が私にどう仰っているのかを聞かせていただくばかりであります。

南無阿弥陀仏


次回の念佛座談会は9月12日 15時~です。

秋 彼岸会のご案内

寺報やHPでお伝えしておりました秋彼岸会は

日時:9月22日
時間:午後2時~4時頃
場所:念佛寺

となっております。お勤めの後、住職法話です。お念珠とお勤めの本(無ければお貸しします)をご持参してください。どなたでも参加できます。お待ちしております。

                          念佛寺