2016年8月6日土曜日

握るということ

自分の思い通りにしたいという欲求は絶えず起こってきます。
それが個人的な些細な事であっても、あるいは組織や国といった大きな枠組みに中にあっても、
何かしら自分の思い通りにしたいものです。
自分の思い通りにならず、不平不満ばかりの人生よりは、
思い通りにいくような人生を歩みたいと願い、
自分の思い描くことを成し遂げた時の喜びは、
いつ味わっても飽きる事のない甘い蜜のようなものです。
一つの成功体験は、自分に少なからず影響を与えます。
「この場合はこうすればいい」
「これさえわかっていれば大丈夫だ」
と、自分に失望していたものにとっては大きな励みになる事もあります。
しかし、成功体験を握りしめすぎて今度は失敗するという事もあります。
そのような時は手放さなければ先に進まないわけですが、
私たちは一度握ってしまったものをなかなか手放そうとしません。
手放して何もかもなくなるよりは、次は成功する「かもしれない」という非常にあやふやなものであっても、
何かを「握っている」という実感を与えてくれるものを私たちは選んでしまいがちです。
それほど過去の成功体験は私に何かを握らせるのですが、その背景には少々不安でも何かを握っていれば何とかなるかもしれないというところに「安心」を見出そうとしているということでありましょう。

松並松五郎さんの語録の中にこのような言葉があります。

「仏は握るのではない、私が仏さんに握られたノヤ。握られた証拠がナンマンダブツ、ナンマンダブツということや。仏さまに握られた姿が称名となって現れている姿であった。握られている中におる私であった。」

私が握っている物事は、私の主観によって良し悪しを決定付け、その結果に於いて取捨選択をします。
しかし、その取捨選択が正しかったのか、間違っていたのかさえも、なかなか分からないのが私たちの主観というものであります。
その虚構を映し出す私の主観では到底安心を握る事能わざる故に、仏が私を握ってくださっているのです。
「必ず助ける」
と仏が私を握り続けていることが、阿弥陀仏の「摂取不捨」なのです。
何かを握って安心しようと握るものを探し続け、
やっとの思いで握ったものでさえもすぐに色褪せていく私に、
握ったものの不確かさを示し、握る根拠としていた我が主観の虚構なる事を知らせ、
真実を握れぬわたしを握り続けている事を
「ナムアミダブツ」
の音声仏となって「今」握られている事を知らせ、お助けの成就している事を知らせて下さっています。
「ナムアミダブツ」
「ナムアミダブツ」
阿弥陀仏の呼び声を聞かせて頂くばかりであります。



逃げるものを追い続け・・・