2016年7月7日木曜日

自力をはなるる

『「横超」とは、本願を憶念して自力の心をはなるる、専修というは、ただ佛名を称念して自力の心をはなるる。これを「横超他力」と名づくるなり。』
                  (教行信証 化身土巻)

 先日の学習会の中で、佐々木蓮麿先生の「自力を離れるには、本願を憶念する事と仏名を称することだ」という言葉を住職から紹介されました。
 
この言葉は教行信証(岩波文庫 金子大栄校訂 底本 萬延2年本)の化身巻に見る事が出来ますが、「自力を離れる」という事は真宗の教えをいただく者として必ず問題となってくるものです。

 「自力」とは「他力」に対する言葉で。自分が修行し修めた善根によって迷いを離れようとするということです。親鸞聖人の『一念多念文意』に

「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」

とあります。
私たちは自分の力や自分のしてきた事、あるいは自分自身を頼りとし根拠として生きているわけですが、自分の行動や思いというものは、純粋で清浄なものではなく、どこかに功利的な心が入り込んでいたりするものです。
 
 しかし、このような考えは誰かに教わった結果として身についたというよりは、ごく自然にそのような生き方になっていたというものであります。
 実はこの心が非常に厄介なもので、自分を頼りとし自分の考えを拠り所とするということは、苦悩を生み出す自分自身を拠り所としているという事であり、これではいつまでも苦悩から離れる事はありません。
 
 私たちの利己的自己中心性をたよりとする生き方は、他者の苦しみや痛みに共感することなく、自己の損得で物事を見ていく功利的な生き方を是とし、そのことによって他者との軋轢を生みだし、結果的に人生の苦悩を味わう事になってしまうのです。
 
 そのような見識はいつの間にか自分の在り方そのものを見失う原因となるのですが、たとえそうであっても自分が自分に対する信頼を捨てる事が出来ないのか現実的な自分の姿でもあります。
 
 そのような自分を信頼するのではなく、そのような人生そのものを変革し、生死流転の迷いの生存から離れさせるという阿弥陀仏の本願をたよりとしてくれよという大悲の心が「南無阿弥陀仏」の名号となって常に私に呼びかけ、自己中心性の結果、生死流転している者を「必ず助ける」と誓われているのです。
 
 本願を憶念し名号を称するというのは、一言でいえば「お念仏の人生」ということであります。自己中心の生き方であったとしも、今すでに如来の大悲本願海の中に在り、お念仏を聞く処に喜びを与えられ、自力の必要なき事を知らせ、必ず助けるという「摂取不捨」の利益を恵まれてくるものであります。その摂取不捨の利益により、生死流転の迷いの生存から、ようやく離れることができるのであります。 (副)
                    
                  南無阿弥陀仏