2016年7月13日水曜日

7月12日 念佛座談会

本日はまず、「ただ口に称えるだけの念佛だけでは駄目だ、とよく聞くが、どうなのでしょうか?」という問いに対して、
法然聖人以前の念佛、法然聖人の念佛、親鸞聖人の念佛、蓮如上人の念佛という念佛の変遷を追いながらそのような問いの出てくる背景をたづねていきました。
 
 念佛を称えさえすればよいという時代から、如来のはたらきのかかっている念佛を正しく「信じる」という「信」を問題にする時代へと変遷するが、蓮如上人の御文に再三出てくる「信」を問うような時代であっても、基本的には念佛を称えるということはあった。
 
 つまりベースに称名念佛がある上で「信」を問い、ただ口に称えるだけと思っている念佛であっても、ただ口に称える念佛が出ないのに「信」を問うという事は起こらない、ということでした。


本日のテキストは「求法用心集」より


「そのまゝと聞くたびごとに涙かな」  そのまゝの一言に五劫兆載永劫の御苦勞も、千須弥山の骨身も皆おさまる。永い永い御思案で、短い短い一念を案じ出して下されたのなり。  さればこの一念は、五劫兆載永劫の涙のかたまりなり。 駒月の某曰く、「皆がそのまゝそのまゝと云へど、涙の出ぬそのまゝでは残り多い」


いかがいただかれましたか?

「千須弥山の骨身」は法然聖人の「無量寿経釈」に見る事ができますが、法蔵菩薩の血肉を私たちは食しているにもかかわらず情すらない、という何とも胸が痛くなるような話の事です。

次回の念佛座談会は8月2日です。
    
        南無阿弥陀仏