2016年7月14日木曜日

『語録』にたずねる

「そのままでよい」と聞いても素直に「そのまま」でいられないのは人の性分であり、「そのまま」と聞いても「何かしなければならない」と思ったり、逆に疑い心から「そのままで良いわけがない」と思ってしまうものです。

私たちの娑婆世界は「本音と建て前」という事を意識し、対他関係に大きな影響力を持ち無視できないものであります。
 
それが無ければ人間関係はすぐに破たんしてしまい、娑婆という耐え忍ばなくては生きていけない世界に於いては必要不可欠な要素と言えるかもしれません。
 「本音と建て前」という事を駆使しなければならない人間関係は、非常に不安定で嘘や仮というような関係と言っても過言ではありません。ですから、できるだけそのような関係ではなく、何でも言い合い、認め、受け入れるような関係が望ましいのですが、そのような関係を簡単に構築できるわけではありません。
 
また、自己防衛本能により自分に不利益を被らないらないようにする為に身構え、疑い、時には拒絶してしまう心や、或いは認められたいという思いや相手を認めさせるという心が驕り高ぶりを生み出しますが、それでは相手との信頼関係を築く事はかないません。
 私たちは、「本音と建て前」のような虚偽虚構を好き好んで行っているわけではないのですが、結果的に虚偽と言わざるを得ないような生き方になっている事が悲しむべきことなのでしょう。求法用心集に


等覚寺師に從いて永々聴聞した長崎のもん女、師から、「機はそのまゝで法をよく聞くのぢや」と承はつて居たが、とかくならうならうの念が絶えず、そのまゝがわからず、師の滅後、國に歸りしも相談相手もなく、人からはどうもおかしなものぢやと云はれたりしたが、三年の後老師の坊守への便りに、 「いよいよ逆謗の死骸のなりの御助け、これ自然のあらはれと存じます」と。これ正しく宿善の時機到つたと云ふものであらう。(求法用心集55)


という言葉が残されています。
「機はそのまま」という言葉があります「今のあなたそのまま」ということですが、そのままで阿弥陀様のお心を聞くのだという事です。阿弥陀様と私の関係に「本音と建前」のような事は必要ありません。 
しかし、「そのまま」と聞いても阿弥陀様に対しての疑いや、驕り高ぶりを起こしてしまい、阿弥陀様のお手を煩わすことなく自分で何とかしようという魂胆やなどが起こってしまい、結果的に阿弥陀様の「お助け」に遇う事が出来なくなってしまいます。「そのまま」を「そのまま」といただく事は簡単に聞こえますが、実際は非常に難しいことです。
 
そのような虚構に満ち溢れ、教えを疑い、いくら叩いても仏法が響くことのない死骸のような者であるという事を既に見越して阿弥陀様が「必ず助ける」とお誓いになった大悲のお心を、お念仏に込めて口に称えさせて、お助けが既に完成し届いている事を気付かせようとしているのです。

「なむあみだぶつ」

と、「ただ称えるばかりで必ず助ける」という阿弥陀様の大悲の誓いを「そのまま」いただく外に仏法はないのですが、「そのまま」といただくのも阿弥陀様のお育てであると聞かせていただくばかりであります。 (副)

        南無阿弥陀仏



2016年7月13日水曜日

7月12日 念佛座談会

本日はまず、「ただ口に称えるだけの念佛だけでは駄目だ、とよく聞くが、どうなのでしょうか?」という問いに対して、
法然聖人以前の念佛、法然聖人の念佛、親鸞聖人の念佛、蓮如上人の念佛という念佛の変遷を追いながらそのような問いの出てくる背景をたづねていきました。
 
 念佛を称えさえすればよいという時代から、如来のはたらきのかかっている念佛を正しく「信じる」という「信」を問題にする時代へと変遷するが、蓮如上人の御文に再三出てくる「信」を問うような時代であっても、基本的には念佛を称えるということはあった。
 
 つまりベースに称名念佛がある上で「信」を問い、ただ口に称えるだけと思っている念佛であっても、ただ口に称える念佛が出ないのに「信」を問うという事は起こらない、ということでした。


本日のテキストは「求法用心集」より


「そのまゝと聞くたびごとに涙かな」  そのまゝの一言に五劫兆載永劫の御苦勞も、千須弥山の骨身も皆おさまる。永い永い御思案で、短い短い一念を案じ出して下されたのなり。  さればこの一念は、五劫兆載永劫の涙のかたまりなり。 駒月の某曰く、「皆がそのまゝそのまゝと云へど、涙の出ぬそのまゝでは残り多い」


いかがいただかれましたか?

「千須弥山の骨身」は法然聖人の「無量寿経釈」に見る事ができますが、法蔵菩薩の血肉を私たちは食しているにもかかわらず情すらない、という何とも胸が痛くなるような話の事です。

次回の念佛座談会は8月2日です。
    
        南無阿弥陀仏






2016年7月12日火曜日

8月のご案内など

 毎日本当に暑いのですが、まだ梅雨明けはしていないようですね。
さて、見出しにもありますが、8月が近づいてまいりましたので、案内や告知をさせていただきます。8月の行事は、

2日念佛座談会

6日聖典講座

10日盂蘭盆会


です。

12日念佛座談会、18日真宗入門講座、22日真宗同朋の会はお休みです
御注意ください。詳しくはHPをご覧になるか、電話などで確認してください。


                                   念佛寺









2016年7月7日木曜日

自力をはなるる

『「横超」とは、本願を憶念して自力の心をはなるる、専修というは、ただ佛名を称念して自力の心をはなるる。これを「横超他力」と名づくるなり。』
                  (教行信証 化身土巻)

 先日の学習会の中で、佐々木蓮麿先生の「自力を離れるには、本願を憶念する事と仏名を称することだ」という言葉を住職から紹介されました。
 
この言葉は教行信証(岩波文庫 金子大栄校訂 底本 萬延2年本)の化身巻に見る事が出来ますが、「自力を離れる」という事は真宗の教えをいただく者として必ず問題となってくるものです。

 「自力」とは「他力」に対する言葉で。自分が修行し修めた善根によって迷いを離れようとするということです。親鸞聖人の『一念多念文意』に

「自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」

とあります。
私たちは自分の力や自分のしてきた事、あるいは自分自身を頼りとし根拠として生きているわけですが、自分の行動や思いというものは、純粋で清浄なものではなく、どこかに功利的な心が入り込んでいたりするものです。
 
 しかし、このような考えは誰かに教わった結果として身についたというよりは、ごく自然にそのような生き方になっていたというものであります。
 実はこの心が非常に厄介なもので、自分を頼りとし自分の考えを拠り所とするということは、苦悩を生み出す自分自身を拠り所としているという事であり、これではいつまでも苦悩から離れる事はありません。
 
 私たちの利己的自己中心性をたよりとする生き方は、他者の苦しみや痛みに共感することなく、自己の損得で物事を見ていく功利的な生き方を是とし、そのことによって他者との軋轢を生みだし、結果的に人生の苦悩を味わう事になってしまうのです。
 
 そのような見識はいつの間にか自分の在り方そのものを見失う原因となるのですが、たとえそうであっても自分が自分に対する信頼を捨てる事が出来ないのか現実的な自分の姿でもあります。
 
 そのような自分を信頼するのではなく、そのような人生そのものを変革し、生死流転の迷いの生存から離れさせるという阿弥陀仏の本願をたよりとしてくれよという大悲の心が「南無阿弥陀仏」の名号となって常に私に呼びかけ、自己中心性の結果、生死流転している者を「必ず助ける」と誓われているのです。
 
 本願を憶念し名号を称するというのは、一言でいえば「お念仏の人生」ということであります。自己中心の生き方であったとしも、今すでに如来の大悲本願海の中に在り、お念仏を聞く処に喜びを与えられ、自力の必要なき事を知らせ、必ず助けるという「摂取不捨」の利益を恵まれてくるものであります。その摂取不捨の利益により、生死流転の迷いの生存から、ようやく離れることができるのであります。 (副)
                    
                  南無阿弥陀仏





6日 輪読会

今回は前回に引き続き光号因縁釈でp281~283までとなりました。

「信心の業識」について、「正定業の識」という先生や梯先生のように「業識=信心」と解釈されたりもするが、「業識=凡夫の心」といっても良いのではないかということでした。
 
 これについて以前、幡谷名誉教授に見解を求めた所、特に異論なしということであったと住職が紹介されました。さらに流転するのは業識であるが、ちなみに一遍上人は「妄執」が流転するといわれるということを話題にし、それに対しての話がありました。

次回は「行の一念」です

大変な暑さですが、共に学びを深めていきたいですね。

                        南無阿弥陀仏



2016年7月3日日曜日

7月に入りました (2日座談会)

 7月に入りましたが、まだ梅雨の真っ最中です。
しかし、今日は非常に暑かったですね。

 
 思わず空を写してしまうほど快晴でしたが、この写真では今日の暑さをお伝えすることはできませんね。電線ばかりが目立つのは仕方ありません。
 
 
さて、本日はまず、住職より「本当の事を聞きたいという時に『場』が必要となってくる」というお話がありました。
 聞法生活を続けていると、疑問が出てきます。これは当然の事であるとおもいますが、それに対して応えてくれる「場」の存在はどうしても必要となってきます。
 
 そういう問を持った方に開かれている場として真宗のお寺というものがあり、念佛寺におきましても、毎月の座談会や同朋会などは問いや悩みに応えるべく開き、そして学びの場として存在の意義を見出し法、お念佛を聞く場であり続けていたいという願いのもとに開いてるという事であります。
 
本日のテキストは『求法用心集』より
 
地獄覚悟で聞く気はなくとも、どうでもこうでも、我が浄土へ生れさせずばと思召す如来の大悲なれば、一日に八億四千も心がうつりかはり、悪のみ造る身なれども、弥陀の名號は利劍故きり給ふ。      

 石の落つる迄に信を得よとの仰せである。  照攝曰く。「左様で御座りますか。石が今落ちますで、今助けてやらうとの仰せで御座りますか。有りがたう存じます。今助けてやらう助けてやらうと仰せられて下されます。辨圓が御顔を拝むなり信得られたのは、助けたいばつかりの御心が遷り現はれたので御座りませうか。        
 
 
いかがいただかれましたか?
 
「今まさに死んでいこうとする、臨終の迫っている者でも助かるのが南無阿弥陀仏」というお話から各自質問等がありました。
 長年御聴聞されている方も多いですが、そこに留まることなく、それぞれに問題を出していただく事が非常に有り難い事であります。(副)
 
          南無阿弥陀仏
 
次回7月12日です。