2016年4月13日水曜日

12日念佛座談会

念佛寺近くの川の桜は見頃を終えましたが、まだ肌寒さを感じる日となりました。2日の念佛座談会は休会でしたので、久しぶりの開催であったと感じられます。

 今回はまず松並師の話となりました。松並師の人柄や師に関わった人の話などがあり、本日のテキストである「松並語録」にもよく目にかかる「東漸寺様」の話などがありました。
 
東漸寺様「本典に『聞思して遅慮することなかれ』と、これをどう頂きなさるか」と。 「私、そんなむつかしい事存じませぬ」と。   その間、「聞」とはきく、「思」は聞いて味わうて受け入れること、もらうこと。聞くまま、もらっている。だから、おもんばかりなく、二の足ふまずに、だいたんに、ゆうゆうと、こいよと言う事では無いですか。南無阿弥陀仏  
松並語録から、松並師がよく話された言葉として「真宗の三猿」ということの紹介がありました。三猿とは「不見・不聞・不言」(みざる・きかざる・いわざる)ですが、それになぞらえて松並師が「禅宗は・見ざる・聞かざる・思わざる(不莫妄想) だが真宗は・見ざる・聞かざる・驕らざる 」ということであるということでありました。この言葉は「松並松五郎念仏語録」にも収録されてありますので一度ご覧になってください。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(教行信証 総序)から「摂取不捨の真言」「聞思」などが話題に上りました。「聞く」とは何を聞くのか、摂取不捨であることを聞くというこが「聞」の中心である、ということを確認し、自分がどうだとか、自分の姿がわかったとかもあるだろうが、阿弥陀様がわたしにどう仰っているか、こちらが大事だということでした。

後半は
東漸寺様「『汝一心にして直ちに来れ我能く汝を護らん』とは」と尋ねられて、 「間違っていましたら教えて下さい」と。 「これお前、お前はお前のまま、姿のまま念仏しておれよ。あとはわしが引き受けた。わしがここにおるぞ、お前を連れてゆくぞとゆう仏の声が、南無阿弥陀仏。『我能く汝を護らん』とゆうは、仏様が出向いて下された姿ではないでしょうか」   一心とは変わらぬ今の心のなり。これを向こうへ向けようとする。そうすると二心になる。  一般の人は、一心正念と仰せられるから、こちらから阿弥陀様の方へ向って行く様に思うが、そうではない。阿弥陀様がこちらへ向うて来て下さる。こちらから一心になって、出かけるなれば「我能汝を護らん」は、いらぬ事になる。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏  
「直に来たれ」に「来いよ」と呼ばれても振り向くことはない、顔を上げる必要もない、ということである。また「来いよ」と呼ばれて「行きます」というのも違う、「来いよ」と聞くままに救われるのである、自分の事を言わなくてよい、ということでした。

                      南無阿弥陀仏