2016年3月2日水曜日

念仏座談会(2日)

今日は念佛座談会でした。寒い中にも関わらず、座談会は熱気を帯びていました。
まず、住職より、「宗教とは何か」、ということについて話がありました。永遠、無限と自己の関係回復が宗教の根本であるということから、浄土真宗においては、阿弥陀に出逢う、といっても、すでに出逢っているを聞くということ、つまり、本願はすでに成就されているのだということが、南無阿弥陀仏として呼びかけられている、というお話でした。

前半は『香樹院師のお説教のなかの言葉』より

・仏法を聞くとは、ただ耳に聞くときばかりではない。寝ても醒めても、如来のお慈悲を心に思い浮かべるのが聴聞である。

・聞法とは、他のことを聞くのではない。至って罪の深い、煩悩妄念のはげしい、しかも臨終が迫って聞き直しの出来ぬものが、如来のお目当てということを聞くのである。

・身の行く末については、千万人の他人の言葉よりも、一人の親のことばが何よりの力、未来永劫の行く末については、阿弥陀如来のお言葉一つが、何よりの杖柱である。

寝ても醒めても、ということから『常』ということを皆で考えてみました。阿弥陀仏は呼びづめだけど、わたしは知らない顔をしている、などが深く内容に切り込んで話合えたかとおもいます。

後半は、「 生死のなかに仏あれば生死なし」という正法眼蔵におさめられている言葉をたよりに、学んでいきました。真宗でいえば、「生死の中に(南無阿弥陀仏)あれば生死なし」といえる、南無阿弥陀仏、つまり浄土真宗の利益は「摂取不捨」であり、「はかりないいのち以外にあなたのは無い、阿弥陀仏のいのち以外にはいのちなし」と知らせていただくことであるということでした。
その後、「不死」ということから、「死にたくない」「死んでもいい」ということから仙崖(臨済僧)の死に際の逸話を引き合いに、「死を客観化、つまり阿弥陀仏におまかせすると、そのまま死んでいける」という教えられました。


次回は3月12日です。

                      南無阿弥陀仏