2016年3月31日木曜日

本山還座式(3月31日)

阿弥陀堂御修復工事着工に先立ち、2011年11月29日に仮阿弥陀堂(御影堂九字之間)にお移しした御本尊を本日、阿弥陀堂にお移しする式(還座式)が執り行われました。
 わたし(副住職)も間に合うように上山する予定でしたが、所用でバタバタしており本山に到着したのが13時頃でした。その時には、阿弥陀堂、御影堂の両堂は既に満座で入場できず、両堂間の渡り付近にて様子を見守りました。大阪教区、長浜教区、高岡教区、岐阜教区、三重教区、大垣教区など各地から団体参拝の御門徒もお見えでした。
 お勤め後、御影堂より阿弥陀堂にお移りになりました。その後、大谷派講師池田勇諦師のご法話がありました。名号としての本尊、そして「阿弥陀につかまれている私の身の事実に気が付く」というお話でありました。その後、改めて荘厳された阿弥陀堂内陣の披露ということでありました。



阿弥陀堂前
両堂間の渡り廊下 向こうは御影堂
雅楽・御門主の後阿弥陀様、厨子により御移動
阿弥陀堂内陣に入られて後、荘厳の為、金扉を閉じます

阿弥陀堂外より…中には入れません
池田勇諦師の御法話。外の廊下で正座し御聴聞のお同行には頭が下がります
阿弥陀堂の金扉が開き、阿弥陀様にお会いする…遠いですね
16時半頃の京都は少し肌寒くも、心は温かく帰路につかせていただきました。

 










2016年3月23日水曜日

春彼岸会(3月22日) 


3月22日、念佛寺春彼岸会を厳修いたしました。
まだ少し寒さの残る日になりましたが、沢山のお参りでございました。

14時より、お勤め。その後、住職の法話となりました。
 法話は信心獲得ということでしたが、浄土真宗の法話はこの一点に集約されております。
真宗で語られる言葉は、「佛言」です。
 佛言に遇うということは、光に遇うということであります。
阿弥陀仏の光は言葉(南無阿弥陀仏)となってとどきます。それは一切衆生をたすける、との呼び声で、松並師の
 呼びづめ 立ちづめ 招きづめ 弥陀はこがれて あいに来た 其のお姿が 南無阿弥陀仏
というお心であるということでありました。(副)

                         南無阿弥陀仏




☆ 次回の念佛座談会は  4月12日  です。



4月2日 休会ですのでご注意ください


                         南無阿弥陀仏

2016年3月18日金曜日

真宗入門講座(18日)

歎異抄とテキストとし、約2年半ほど学びました。本日は歎異抄の最終講座ということで、蓮如上人の奥書まで学ばせていただきました。約2年半の中で、沢山の事を学ばせていただきましたが、お伝えしなければならないことを十分にお伝えできなかったことは、わたしの学びの浅き事であると痛感してやみません。歎異鈔講座としては本日をもって終了ですが、歎異抄に聞いていく歩みを終えるわけではないので、次の講座で機会があれば触れていきたいと考えております。

次回(4月18日)からは蓮如上人に学んでいきたいと思っていますが、テキストは未定です。
テキストは用意いたしますので、面々の御計らいによってご参加ください。(副)
                                   
                    南無阿弥陀仏    

2016年3月12日土曜日

念仏座談会(12日) 次回予定も確認してください↓

先日、木村無相師の33回忌が福井県武生市にて執り行われ、多くの方がご参列であったということです。

 前半は住職の話からですが、「凡夫が真実に出逢っていたとしても、間違った判断をする場合がある」ということから、座談が始まりました。
・先の大戦での仏教者の行動や、あるいは、他宗教の「聖者」であっても善悪の判断を誤るということ。
・この世に生きているということは、罪を犯しながらいきている。
・純粋な善をおこせないのが凡夫であるということ。
など、われわれは真実に生きたくても生きていない。悪からはなれることができない、ということをいろんな事例、そして自身の経験をもってお互いには話しました。

後半は「信者めぐり」より
  三田源七さんが、和兵衛同行に

「いよいよその身におなりなされては再びお全快はできますまいが、今いよいよ出ていかにゃならぬがと思いなされたら、先は明るいものでございますか、暗いものでございますか」

と問うた。すると骨と皮になっていた和兵衛同行がニッコリ笑うて

「後生はあかるいかと云えば明こうもなし、暗いかと云えば暗うもなし、唯病気が苦しい一つよりないわいの、もしも明るいくらいをこの方で見にゃならぬようなことなら、無になる御方があるでのう、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

と、苦しい中で、源七同行の問いを如来聖人のご催促といただいて、我身のしあわせを喜んでお念仏を称えられた。そばにいた親族で聞法者の政四朗さんがそれを見て、

「このご大病のうちに念佛称えなさるは、御恩と思うて称えなさるか」

と尋ねたれば、その時病人お声を張り上げ

「政四朗さん、政四朗さん、往生は仏仕事と聞かせてもらう上からは、機の上のことは聞かぬでもよいわの!」

このお答えがなんとも云えぬ嬉しかった、とある


以上、少々長い文章でしたが、それぞれにお心を聞かせていただきました。


☆ 次回の念佛座談会は  4月12日  です。



4月2日 休会ですのでご注意ください


    南無阿弥陀仏





2016年3月7日月曜日

輪読会(5日)

お伝えしていた通り、6日の変更により、5日開催でした。
 教行信証「教行の巻」梯実圓著 を読み進めています。今回の学習箇所はP270~281までです。「光号因縁釈」ですが、光明と名号の因縁和合し、「念佛衆生摂取不捨」の利益を得るということです。梯和上が懇切を尽くしておしえてくださっておりますので、テキストを中心に考え、それぞれ思うところを発言していただきました。「光明は具体的に教法を聞法するということです」「聞法は光をあびることです」と、住職の話の中ででてきました。

後半は「輪廻」ということが話題となり、「宿命通」などの話となりました。梯和上のテキストに「父母と子の譬えは…古代インドで輪廻転生説を説明するための教説であって、厳密な意味での個体発生の仕組みを表したものではありません」と指摘されています。なかなか難しい箇所であったかとおもいますが、難しいなりの学びというものがあるものです。

次回は4月6日です。
テキストも用意しております。

                南無阿弥陀仏

2016年3月2日水曜日

念仏座談会(2日)

今日は念佛座談会でした。寒い中にも関わらず、座談会は熱気を帯びていました。
まず、住職より、「宗教とは何か」、ということについて話がありました。永遠、無限と自己の関係回復が宗教の根本であるということから、浄土真宗においては、阿弥陀に出逢う、といっても、すでに出逢っているを聞くということ、つまり、本願はすでに成就されているのだということが、南無阿弥陀仏として呼びかけられている、というお話でした。

前半は『香樹院師のお説教のなかの言葉』より

・仏法を聞くとは、ただ耳に聞くときばかりではない。寝ても醒めても、如来のお慈悲を心に思い浮かべるのが聴聞である。

・聞法とは、他のことを聞くのではない。至って罪の深い、煩悩妄念のはげしい、しかも臨終が迫って聞き直しの出来ぬものが、如来のお目当てということを聞くのである。

・身の行く末については、千万人の他人の言葉よりも、一人の親のことばが何よりの力、未来永劫の行く末については、阿弥陀如来のお言葉一つが、何よりの杖柱である。

寝ても醒めても、ということから『常』ということを皆で考えてみました。阿弥陀仏は呼びづめだけど、わたしは知らない顔をしている、などが深く内容に切り込んで話合えたかとおもいます。

後半は、「 生死のなかに仏あれば生死なし」という正法眼蔵におさめられている言葉をたよりに、学んでいきました。真宗でいえば、「生死の中に(南無阿弥陀仏)あれば生死なし」といえる、南無阿弥陀仏、つまり浄土真宗の利益は「摂取不捨」であり、「はかりないいのち以外にあなたのは無い、阿弥陀仏のいのち以外にはいのちなし」と知らせていただくことであるということでした。
その後、「不死」ということから、「死にたくない」「死んでもいい」ということから仙崖(臨済僧)の死に際の逸話を引き合いに、「死を客観化、つまり阿弥陀仏におまかせすると、そのまま死んでいける」という教えられました。


次回は3月12日です。

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