2017年8月7日月曜日

2日念佛座談会

今回は松原致遠師『ただ念佛して』からのことばと仏照寺師のことばです。
松原致遠師は三重県の生まれで香樹院師を非常に慕った方です。


・聞いてわかってよろこんでいるのは知識欲の満足である。一種の享楽である。また、みづからきづかぬ自己優越感の満足である。

・本当にたのんだというのはたのむ心の全くなくなったのをいうのである。微塵でも、わが方にたのむこころがあれば自力である。

・「奈何ともすべからず」というが求道の結論である。そこに「廻向というは本願の名号を十方の衆生にあたえたまふみのりなり」のみことが拝受せらるる。

・我等の内面の事実としては「ちっとも聞いて居らぬ」のである。この無限の空間をうづめるものが念佛である。

・地獄行き々々々とおっしゃるのは、仏になる用に立つものはないと云うことじゃ。それをなろうとかかるのは自力。地獄行きじゃとおっしゃると、それになろうとかかるやら、又知ろうとかかる。知らぬものが知らねばならぬと云うことじゃない。知らぬものが知った顔つきするじゃない。知ってござる御方が「助からぬ奴じゃで、そのままを助けて下さる証拠が南無阿弥陀仏」と知らせたまふ。お意(こころ)の通りが頂けたら、善知識の智慧が私の智慧になる。(仏照寺師)


「本当にたのんだ」というのは弥陀を憑(たの)んだということですが、それだけではよく分からないので梯実圓先生の解説を参考にします。

「たのむ」には『国語辞典』などには「たよりにする。あてにする。信頼する。たよるものとして身をゆだねる、懇願する」などの意味があるが、親鸞の「たのむ」の用法の中には「懇願する」という場合は全くなく、「たよりにする、まかせる」という意味でのみ用いられている。それは如来の御はからいにまかせるとか、わが身をたのまず仏智の不思議をたのむとか、自身が積み重ねた善根功徳をたのむ心を捨てて、ひとえに本願力をたのむといわれていた。親鸞の宗義からいっても如来に救いを願うというような信心であるはずがなかったということは明らかである。

 とあります。すこし長く引用しました。わたしたちが真宗の仏法を聴聞をしたり講座などを受講している場合に何度も「たのむ」という言葉を耳にします。何度も耳にするということはそれだけ大切なことばであるという事なのですが、親鸞聖人が意図している事とは違った理解をしてしまう場合がありますので、注意しなくてはなりません。このことを手掛かりに二つ目の言葉を味わってみてください。

 「聞いてわかってよろこんでいるのは知識欲の満足である」と一つ目のことばにあります。世間一般の「聞き方」というのは聞いて自分で考え理解することですが、ここではそのことを「知識欲の満足」だといわれます。この時の「聞いてわかる」というのは自分の聞きやすいように聞いて自分のわかりやすいように理解するということです。そのような聞き方になると本来のお心に触れることが出来ず、自分の解釈による誤った受け取りになってしまいます。ですので厳しいことばですが、肝要であるがゆえに誤った受け取りをしないようにと師の配慮が窺えます。

  「勅命のほかに領解なし」ということばがありますが、勅命がわたしの領解になり、そのまま疑いなく聞くことを信心と言います。
 信心は自分の心の中を詮索するものではなく、「必ず助ける」との仰せはナムアミダブツのお心であり、その声を聞くばかりであります。
 松並松五郎さんが正信偈をお勤め中に勤行本を落としてしまった事があったそうで、その時「あ、正信偈も用がないんや」と思われて以降ナンマンダブツだけであったというお話しが最後に紹介されました。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ

今月は10日に 盂蘭盆会です。
12日、18日、22日は休会です。








2017年8月2日水曜日

『佛に遇うまで』Kindle版250円 が電子書籍で発売されました。



 お気づきの方もあるかとおもいますが、『佛に遇うまで』(土井紀明著)が電子書籍の響流書房(こうるしょぼう)さんより発売されました。

  今年の初めに瓜生崇さんより「『佛に遇うまで』を響流書房から出しませんか?」という一言から始まり今回の発売に至りました。電子書籍で出版するメリットはデータ化されている事によって絶版されることが無く、且つ手軽でスマートフォンなどがあれば何時でも何処でも読むことが出来るという事です。

 特に今回発売された『佛に遇うまで』は読みやすいものであるとおもいますので、これを機に響流書房さんから電子書籍で購入していただければと思っております。尚、赤線を引かなければ読んだ気がしないという方は念佛寺にお問い合わせしていただくと印刷書籍でお渡しできます。

 電子書籍での購入などの仕方は響流書房さんのHPで確認してください。また、響流書房さんで販売されているラインナップは非常に充実しています。浄土真宗に関心があるがどの本が良いのか分からない方や気軽に仏教書を読んでみたい方は是非これを機会に購入してみてください。

念佛寺



2017年7月16日日曜日

8月の予定

 本格的に暑くなってまいりました。
皆様いかがお過ごしでしょうか?
8月の念佛寺の予定をお知らせいたします。


2日   念佛座談会  午後3時~5時半頃

6日   聖典講座   午後7時~9時 

10日 盂蘭盆会   午後2時~4時

となっております。
12日念佛座談会 ・18日真宗入門講座 ・22日真宗同朋の会 は休会ですのでお間違いのないようよろしくお願い申し上げます。

念佛寺

詳しくは 念佛寺HPまで http://nenbutsuji.info/




12日 念佛座談会

今回は『香樹院徳龍師』の言葉より、


・如来の勅命一つが、すべてのすべてじゃ。勅命を聞いてからの用事は、助けられた御大恩を喜ぶばかり。

・謂われを聞いてから信ずるのではない。お助けの謂われこそ、金剛堅固の私の信心であることを聞くのである。

・ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば、誰でもお慈悲はとどくのである。


「ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば」とありますが、私たちが自身の心を観(み)るという事は果たして出来うるのでしょうか。世間では、自分の心は自分がよく知っているものであり、他でもない我が心を自分自身以外の誰かが自身よりも知っているなどということは決してないと思っています。更には我が心を自制出来るものとして捉えているものです。
 
 しかし、縁さえあれば瞋り、腹立ち、嫉み、妬みというような心が自分の想定を超えて突如として沸き起こってくるものでどうにもなりません。後になって後悔をしたり詫びたりという大変な事態になることもしばしばあります。その時は、申し訳ない気持ちで一杯になりもしますが、時間が経てばいつもの私に戻っているものです。
 
 そのような無思慮無自覚な私たちに「ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば」と、香樹院師は仰っているわけですが、決して私たちの主観に於いて知る事が出来ると思われているわけではありません。阿弥陀仏の「必ず助ける」との本願のお謂われを聞く中に、決して助からざる者だと照らし出され、そのような者だから必ず助けると願われ建てられた阿弥陀仏の本願が、大悲招喚の声の仏となって私の口からナンマンダブツと出でて、その大悲の御声を聞いてくれよとの思し召しがそこのあるのです。

一声一声
如来のお出まし
一声一声
浄土真宗
     (木村無相)
 
ナンマンダブツ







2017年7月8日土曜日

URLが変更になりました。


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真宗大谷派 念佛寺

2017年7月3日月曜日

7月2日 念佛座談会

今回のテキスト「木村無相さんの便り」・松原致遠師「ただ念佛して」より、


〇ただこの、他力廻向の如来の大悲心、即ち、信心の智慧、佛智によってのみ、無い無いづくしの「我が機」、逆謗センダイ、無佛法、無信の「我が機」ということが思いしらされるのであって、いつの間にか、我が、煩悩妄念の意業の奥に、背後に、主体的に、忍び込みたまいし、如来の願心、「称我名字、若不生者不取正覚」の如来の大慈、大悲心、佛智のホカに、ナニか、「信心」というようなモノガラがあるのではなくて、「信心」とは、ワレラが、愚悪、無信の、無佛法の自性、本性の、意(ココロ)の背後というか、奥というか、にいつの間にか忍び込みたもうて、「我が堕ちる実機」のスガタをしみじみと、明らかに、知らしめたまい、かかるワレラは、如来廻向のただ念佛よりほかに、出離の道はないとつくづく、しみじみ、思い知らされたもうを、「信心」と名づけるのであって、ウスカワマンジュウの中身は、アンコであるように、「他力信心、他力信心」といっている「真実信心」の中身は、「アンコ」は、如来の助けんとおぼしめしたちける本願、願心」のことなのですよ。(木村無相)

〇称我名字の仰せのままに、名号を称念することに於て、最もありがたく感ぜらるることは、「すくひ」を求める必要がなくなること、従って救済者を探し求める必要がなくなることである。(松原致遠)

〇念佛一つとは言っても、「念佛する事ではない。「我が名を称えよ」の仰せが聞こえて来れば、その仰せ出さるる願心の内容たる自己のすがた、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界を自らの内に発見するのである。このとき、その照らすものの前にひれ伏して、おのづから念佛まをさんとおもひたつこころ(自らのはからひをすてる心)が起こるのである。ここにこそ、まことに仰せ一つに、ありあまるよろこびを感ずるのである。(松原致遠)


 浄土真宗は「阿弥陀様のひとり働き」「他力の信心」というが、お寺にも来ない、佛様の話も聞かない、念佛も申さない人が突然「信心いただきました」とはまずなりません。やはり、念佛聞法するという経験が一つありますが、あまりそこに立ち入った話を聞くことがありません。木村無相さんはそのような事をお手紙の中の一部で記されているので、それを紹介させていただきました。
 
 木村さんの言葉に「しみじみ」や「いつの間にか」とあります。ナムアミダブツを聞く一つにおさまるのですが、称えては聞き、聞いては称えるところに如来の大悲心がしみ込んでくるというお心でありましょう。「お念佛」を軽く考え、論理的な話に重きを置くような風潮がありますが、冷たい論理で私たちは助かりませんし、論理は思考の内にある為に自力と言わざるを得ません。木村さんの詩に、


道がある 道がある    
たった一つの道がある    
ただ念仏の道がある    
極重悪人唯称仏
とあります。


 称えさせ、聞かせ、信じさせる道をつけて下さったのが阿弥陀様のご本願であります。もしかするとお寺にも来ず、仏法をも聞かず、お念佛も申さない方で信心をいただくという方がおられるかもしれませんが、やはり「我が名を称えよ」に込められたる如来様の大悲心をしみじみ聞かせて頂くところに温かいものを仄かに感じさせられるのであります。

ナンマンダブツ






2017年6月16日金曜日

12日 念佛座談会

 関西は梅雨入りして暫く経ちますが、雨の気配はありませんね。
余談ですが、「梅雨」の「梅」はそもそも黴菌の「黴(ばい:カビ)」ということらしいですね。
長雨によって黴菌が発生しやすい時期だという事ですが、あまりにも語感が悪いということで黴→梅に変換されたようですね。

 さて、今回も参加の方から疑問や質問がありました。

「『業をつくす』と聞いてみなさんどのようにおもいますかね?」

 と参加者の方々に対して質問されました。
この様な質問が参加者の中でなされるという事は非常に有難い事ですね。

 「業をつくす」というのは一時前はよく使われていた言葉のようです。(最近はあまり聞きません)
その方は米沢英雄(福井の人、医師、)さんの本でこの言葉に出会われたようです。
 業というのは広義で言えば「行為」や「結果を引き起こすはたらき」ということになります。
しかしこれだけでは充分ではなく、その行いが行為者に残っていく影響も含めて業と言います。

 釈尊が業について説いた経典は非常に多いわけですが、とりわけ知られているのが『スッタ・ニパータ』(経集)の中の『ヴァーセッタ』の質問に


「人は生まれによって〈バラモン〉たるにあらず
 生まれによって〈バラモン〉たらざるにあらず
 人は行為によって〈バラモン〉となり
 行為によって〈バラモン〉たらぬものとなる」


ここでいう「バラモン」は四姓(身分制度)やバラモン教や司祭階級のそれではなく、釈尊の仰る「バラモン」は『ダンマパダ』に


「前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人―― かれを われは 〈バラモン〉と呼ぶ」


と「聖者」として語られてあります。

 良い家柄に生まれたから良い人ではなく、その行いによって良い人になるのだ、というような事なのですが、釈尊ご自身がカースト制度に対して批判された言葉として受け取る事出来ます。
 この「業」の考え方は非常に大切で釈尊の個人的な話ではなく、現代を生きる私たちもまた生まれや人種、民族、宗教などによって人を判断し差別し分断する事があります。
 
 「あの人は~の生まれだ」とか「あの人は~教の人だ」と言って「行為」とは無関係の次元で区別、差別、批判をしたり、或いは、されたりしています。
 そのような事自体を釈尊は批判し、人はその人自身の意思によってその行為を選択し、それがその人の在り様を定める決定要素なのだと仰っています。。
 
 それと、これも非常に重要な事なのですが、業説を「運命論」のように理解するのは注意しなければなりません。
 『歎異抄』に「宿業(しゅくごう)」という言葉が出てきますが、親鸞聖人の語られたお言葉として言われております。しかし聖人ご自身の著作は数多いものの、『教行信証』から『御消息』に至るまで聖人ご自身の著作には一度も「宿業」という言葉は出てまいりません。
 
 「宿業」という言葉は確かに大事な言葉なのですが、ややもすると本来的ではない理解、つまり現在の自己や他者を過去の業の結果が全面的に現在を規定していると捉えてしまう事には注意をしなければなりません。
 親鸞聖人の宿業観は飽くまでも聖人ご自身の内容であり、「あなたの現在の在り方はあなたの過去の業報によってそうなっているのだ」と仰っているわけではないと理解しておかねばなりません。
 
 米沢さんがどのような意図で「業をつくす」と仰ったかは、その言葉の背景を知らなければ申し上げる事ができません。しかし、座談会の参加者の方々が、その言葉の難解さに触れつつご自身の考えを熱心に述べられた事それ自体に「学び」を感じさせていただきました。

ナンマンダブツ