2018年4月14日土曜日

寺報(お寺の新聞)をupしました。
 
 2018年のお寺の新聞を1月分から3月分まで載せました。

 紙ベースでは毎月きっちり配布しているのですが、こちらはいつも遅くなっております。
 ご感想などがございましたらメールにてお待ちしております。(もちろん電話も受け付けております)。

よろしくお願い申し上げます。


   念佛寺

2018年4月4日水曜日

4月2日 念佛座談会
 
今年の桜は開花が早かった影響でしょうか、例年よりも早く散りそうですね。
 
 今年は珍しく大阪城に花見に行って参りました(例年はお花見をしません)。多くの観光客でに賑わっていましたが、外国の方が桜の下で宴会を楽しそうにしているのは目を引きました。帰りには大阪城公園内にある『蓮如上人袈裟懸けの松跡』を横目に森ノ宮駅から甲子園口駅まで戻ってきました。

 さて本日は『松並松五郎念佛語録』から


○火事と自ら気付いて逃げ出す人もあり。火事と知らされて、逃げ出す人もある。火事だと呼ばれても、火の付いた家に気付かず、寝ている赤子もいる。平気で寝ている赤子を、抱きかかえて逃げ出すよりほかには助かる道はない。吾々は何と云われても火の付いた世界、火宅無常の世界と聞かされても、それを本当に気付かない。平気で暮らしているこの私に、阿弥陀さんが私にとび込んで来て下され、私を抱きかかえて下さる、其の御姿が、今現にこの口に聞こえてくださる。 南無阿弥陀仏


○三百六十五枚敷きの部屋に住んでいて、障子一枚も入れてない部屋ですき間風が寒いと言えばおかしいこと。障子・ふすまが入れてあってこそ、すき間風です。念仏懈怠とは念仏称えてござるお方のこと。称えさされているだけのこと。


○南無阿弥陀仏は真理中の真理。五劫の御思案、永劫の修行のあかつきに、出来上がった、成就されたものです。智慧の頂上、御慈悲の頂上である。ただ、ひたすらに聞くべきもの、頂くもの、従うべきもの、受けるもの。聞くとは用いること、随うべきものなり。


 今回は難しいですね。

 一つ目は味わいやすいように思いますが、最後の「其の御姿が、今現にこの口に聞こえてくださる。南無阿弥陀仏」がなかなかいただき難いのではないでしょうか。私たちの人生は常に脅かされています。それは火宅(煩悩に満ちた娑婆世界を燃え盛る家に例えた言葉)に居ながらもその状況にまったく気がつかず、いよいよ危なくなって初めて我が事として受け止める事ができます。
 
 しかし、気がついた時には既に身も心も焦がしているのもので、「あのとき気を付けておれば」と後悔して次は気をつけようとしますが、なかなか徹底できないものです。火事に気をつけれるものであれば火事は起こらないであろうし、私が罪悪の身であるという事を徹底できるのであれば、良い事をし悪い事をしないような生き方も可能でありましょう。ですが、火事だと呼ばれても気づかずいつまでも寝ている赤子のような私たちではないでしょうか。

 そのどうにもならない私を助けると阿弥陀様は仰るのですが、その姿が口から”聞こえる南無阿弥陀仏だと教えられます。一声のナンマンダブツは阿弥陀様の永劫の修行の末に成就なされた慈悲と智慧の頂上です。その一声をただ聞くばかり従うばかり受け取るばかりであると教えられているのです。

ナンマンダブツ ナンマンダブツ

次回の念佛座談会は12日です。










念佛寺永代経のご案内


先月ご案内いたしましたが、再度案内をさせていただきます。

日時: 4月22日(日曜日)

時間: 午前10時 お勤め お勤め終了後住職法話
           
             休憩 
 
             午後2時 お勤め  お勤め終了後御講師法話


持ち物: お念珠  お勤めの本(お寺にも用意してあります)



御講師案内

西川 和榮 さん

 大阪・堺市の主婦で歌人の西川和栄さんにお話頂きます。西川さんは、昭和八年のお生まれ。子どもの頃から金沢で、仏法の信心が深い人々に囲まれて育ち、子ども心に大人が語る仏様の世界の不思議さに疑問と同時に感銘を受けて、その後の生涯を子どもの頃抱いた仏の世界、人間の世界に対する疑問の解決に向かって精進努力を続けてきた方です。(宗教の時間より)






2018年3月5日月曜日

4月22日 念佛寺永代経 のご案内

4月22日 念佛寺永代経 のご案内

念佛寺永代経を来月22日に勤めます。
 
 真宗寺院の永代経は諸宗の永代供養とは異なる意味合いで勤まります。諸宗の場合は永代に渡り経典を読誦し故人の冥福を祈り供養するとされていますが、真宗寺院の場合は仏法を永く聴聞する機縁として執り行われます。
 
 故人の永代供養を済ませたら後は心配がないと思われるかもしれませんが、供養して安心している私自身が「たすからない身」である事を知らされるかどうかが問われてきます。真宗寺院の永代経は助からない私を必ず助けようと思い誓われた阿弥陀様の本願のお心をいただく大切な場であります。どこの真宗寺院でも結構です。どうぞご聴聞してください。

南無阿弥陀仏


念佛寺永代経

日時: 4月22日(日曜日)

時間: 午前10時 お勤め お勤め終了後住職法話
           
             休憩 
 
             午後2時 お勤め  お勤め終了後御講師法話


持ち物: お念珠  お勤めの本(お寺にも用意してあります)



御講師案内

西川 和榮 さん

 大阪・堺市の主婦で歌人の西川和栄さんにお話頂きます。西川さんは、昭和八年のお生まれ。子どもの頃から金沢で、仏法の信心が深い人々に囲まれて育ち、子ども心に大人が語る仏様の世界の不思議さに疑問と同時に感銘を受けて、その後の生涯を子どもの頃抱いた仏の世界、人間の世界に対する疑問の解決に向かって精進努力を続けてきた方です。(宗教の時間より)






春 彼岸会のご案内

春 彼岸会のご案内

梅花の時期になり、寒さも少し和らいできました。
来る3月22日に 念佛寺春彼岸会 を執り行います。


日時: 3月22日(木)

時間: 午後2時~4時 


(2時よりお勤め、終了後休憩を挟み住職法話)

持ち物:お念珠 (お勤めの本は用意してあります。)


どなたでも参加できます。

駐車場はありません。車でお越しの場合は周辺駐車場をご利用ください。

質問等ありましたらHPよりメールか電話で問い合わせてください。
急な変更がある場合はブログで案内いたします。

よろしくお願いします。


念佛寺





3月2日  念佛座談会

3月に入り少し暖かくなってまいりました。
この冬は雪の被害があり各地で大混乱でした。
まずは座談会での語録より


〇 明信寺師の仰せに。善知識の御化導を御註文の如く思い、教の如くならんとしても、それはなれぬ。喩えば紙の船や形を折って小供に与える時は、暫く眺めておって直ぐ解く。やがて元の如く折らんとするも出来ゆえ泣き出す。今もその如く仰せの如くならんとするも金輪なれぬ。 ただ仰せのままを聞くばかり。 

〇 姑が嫁に問う。「私を実の親と思うか」と。心にそう思わずとも嫁は「実の母の様に思います」と、答えるに違いない。処が実母が「私を親と思うか」と、若し問うた場合「そんなこと知らん」と答えても実の親子は何ともない。嫁と姑なら大変なことになる。思わねばならぬと思うだけが浅い。へだたりがある、垣根がある。 南無阿弥陀仏   『松並松五郎念佛語録』


 一つ目に「明信寺師の仰せ」とありますが、この方は岐阜の農家の生まれで香樹院講師と出遇った事がきっかけとなり出家された方です。その方の言葉です。

 二つ目は松並松五郎さん語録からです。
 どちらも喩えがわかりやすいですね。
 
 ここでは「こうせねばならぬ」や「思わねばならない」という事が問題になっています。仏教の本を読んだり偉い先生のすばらしい体験や境地を聞くと「あのようにならないと」「先生のように思わなければ」と何か信仰条件として思うようになります。
 
 しかし、それぞれ一人一人の業が異なるのでなかなか先生と同じように思う事や感じる事は出来ないものです。たとえそのような心を作り上げたとしてもすぐに流れ去ってしまいます。そのあたりは「教の如くならんとしても、それはなれぬ」ということでありましょう。そもそも阿弥陀様はそのような事を要求しているわけではありません。寧ろその作り上げた心が教えを素直に聞き受ける事の障碍となるものです。

 ですので、そのような心を頼りとしたり作り上げるのではなく、ただ阿弥陀様の仰せを仰せのまま聞くばかり、称えるままでたすけると阿弥陀様の慈悲をそのまま聞くばかり。こちら側の作り心は少しも必要ない事であります。 

 ナンマンダブツ

次回の念仏座談会は12日です。



2018年2月16日金曜日

12日 念佛座談会
 
 念佛寺の座談会は先哲の語録などを味わって話し合いをしたり、日ごろの御聴聞で出てくる疑問などをお互いに考えてみるということをします。
 今回は参加者の方から出てきた質問をもとにお互いに話し合ってみたのですが、よくある質問が出てきたので取り上げてみます。

質問に「お念仏を称えよといわれるが、理解しないまま称えていいものか、理解して称えるものなのかどちらでしょうか。私はお念佛を理解して称える方がよいとおもうのですが・・・」

 とありました。
 同じような事で「お念仏にはどのような意味があるのですか?」とか「どのような気持ちでお念仏すればよいですか?」と聞かれることがあります。中には「感謝の気持ちでお念仏しています」や「” 今日もよろしくお願いします ” の気持ちで毎朝お念仏をしています」という方もおられます。
 お念仏とは「ナムアミダブツ」の事ですが、あまりにも身近すぎて自分でわかったような気になっていたり、自分の気持ち次第で唱えるものだと考えている方も多いようです。このような場合は浄土真宗がどのようなものであるかをあまり知らない方が多いのではないかと感じます。 
 この質問の方も浄土真宗の話を聞き始めたばかりだと想像されるかもしれませんが、実際はよくご聴聞しておられる方です。実はよくご聴聞されるからこそ真剣な問題としてこのような質問がでてくるのです。


 さて、話をもどしますと、「お念仏を称える」という事はもともと法蔵菩薩がどうすれば一切衆生をもらさず救えるかという事を考えた時に称名念佛を取り上げられました。私たちが何故ナンマンダブツを称えるのか、どんな気持ちで称えるか、という疑問を持つよりも前に、何故法蔵菩薩がナンマンダブツを選び取って称えるばかりでたすけると仰ったのかを聞かなくてはならないでしょう。そのこと無しに何故称えるのか、どのような意味があるのかということを自分で考えたり人に尋ねたりしてもなかなか納得できるような答えを得ることはできません。

 人間の心には真実はありません。その真実の無い者を仏にするにはどうすればよいか。法蔵菩薩はご自身で修行され、その人、その業、その全部を引き受けて救いの因を全部法蔵菩薩が仕上げて下さりました。それがナンマンダブツです。ナンマンダブツを口先だけで称えるお念仏は、自分の心がどうかという事に何の用もありません。ただ念仏するばかりで助ける、これがどう聞こえるかというと「助ける」。助けるからまかせてくれよというのが阿弥陀様の慈悲の言葉としてあります。それがナムアミダブツなのです。

ナンマンダブツ

次回は3月2日です。
少しは寒さが和ぎますかね。
今回は写真を保存しているパソコンが故障中の為、写真はありません・・・。

2018年2月6日火曜日

2日 念佛座談会

 寒い日が続きますね。
今回は『松並松五郎念佛語録』より


〇黒野の小里さん宅に詣り、帰りに私と大和へお越し下さった。夏の盛りでした。車中で雨が降り出した。小里氏、こまったこまったと連発。それに対し、自然にまかせておけばよろしいやないか、家を出る時雨模様であるのに傘を持たなんだのならともかく、あのとき晴天でしょう。雨が降ったら濡れたらよいのや。それを濡れまいとするから苦になる。下車する頃には雨が上がって晴天です。濡れたとてあなたに着替えて頂く衣類はあります。こまったこまったと云う口で念仏聞きましょう、と。大和え着けば晴天。それそれ見なさいな、何にもならぬ計らいは心の苦です。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。帰られてから手紙頂きました。あんな無理なこと、もう絶交だと腹の中で思っていましたが、まことまこと有り難うございます、と。私もあやまりの便りを出しました。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


〇・・・日々の所作が如来様の御計なれば、称えられる時も、その時の流れに、流れにまかせて・・・
一遍上人の歌に
 仏こそ いのちと身との あるじなれ 我が我ならぬ こころ振る舞い


 松並さんが黒野にある小里さんのお宅にお説教に赴き、その帰りに小里さんと一緒に大和(松並さんの自宅)まで帰ってきた時の話です。小里さんの家を出る時は晴天で、電車の車中で雨が降り出し小里さんが「こまったこまった」と連発していたのですが、大和の駅で下車した時には晴天だったということです。こういう事はよくありますね。「あの時やっておけばよかった」という事がなんとも多い生き方をしているものです。

 しかし、ひとたび電車に乗ってしまえば、どうする事もできません。どうすることもできないとわかっている事でさえも何とかしたいと計らい、どうにもならない事実を受け止めきれずに苦しんでしまいます。「雨が降ったら濡れたらよいのや。それを濡れまいとするから苦になる」つまり因縁に随って生きて行くしかない、と続いていくわけですが、ここまではよくあるような話でもあります。
 しかし、「こまったこまったと云う口で念仏聞きましょう」となるわけです。ここが世間的な解決方法とは少し違うところではないでしょうか。しかも「念仏〝聞きましょう″」と。困ったから念仏唱えて何とかしよう、ではありませんね。困るのが人生です。その困る人生と念仏がどのように結びついているのでしょうか。そこを尋ねるのがご聴聞でありましょう。

ナンマンダブツ

次回に念佛座談会は2月12日です。