2017年6月16日金曜日

12日 念佛座談会

 関西は梅雨入りして暫く経ちますが、雨の気配はありませんね。
余談ですが、「梅雨」の「梅」はそもそも黴菌の「黴(ばい:カビ)」ということらしいですね。
長雨によって黴菌が発生しやすい時期だという事ですが、あまりにも語感が悪いということで黴→梅に変換されたようですね。

 さて、今回も参加の方から疑問や質問がありました。

「『業をつくす』と聞いてみなさんどのようにおもいますかね?」

 と参加者の方々に対して質問されました。
この様な質問が参加者の中でなされるという事は非常に有難い事ですね。

 「業をつくす」というのは一時前はよく使われていた言葉のようです。(最近はあまり聞きません)
その方は米沢英雄(福井の人、医師、)さんの本でこの言葉に出会われたようです。
 業というのは広義で言えば「行為」や「結果を引き起こすはたらき」ということになります。
しかしこれだけでは充分ではなく、その行いが行為者に残っていく影響も含めて業と言います。

 釈尊が業について説いた経典は非常に多いわけですが、とりわけ知られているのが『スッタ・ニパータ』(経集)の中の『ヴァーセッタ』の質問に


「人は生まれによって〈バラモン〉たるにあらず
 生まれによって〈バラモン〉たらざるにあらず
 人は行為によって〈バラモン〉となり
 行為によって〈バラモン〉たらぬものとなる」


ここでいう「バラモン」は四姓(身分制度)やバラモン教や司祭階級のそれではなく、釈尊の仰る「バラモン」は『ダンマパダ』に


「前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人―― かれを われは 〈バラモン〉と呼ぶ」


と「聖者」として語られてあります。

 良い家柄に生まれたから良い人ではなく、その行いによって良い人になるのだ、というような事なのですが、釈尊ご自身がカースト制度に対して批判された言葉として受け取る事出来ます。
 この「業」の考え方は非常に大切で釈尊の個人的な話ではなく、現代を生きる私たちもまた生まれや人種、民族、宗教などによって人を判断し差別し分断する事があります。
 
 「あの人は~の生まれだ」とか「あの人は~教の人だ」と言って「行為」とは無関係の次元で区別、差別、批判をしたり、或いは、されたりしています。
 そのような事自体を釈尊は批判し、人はその人自身の意思によってその行為を選択し、それがその人の在り様を定める決定要素なのだと仰っています。。
 
 それと、これも非常に重要な事なのですが、業説を「運命論」のように理解するのは注意しなければなりません。
 『歎異抄』に「宿業(しゅくごう)」という言葉が出てきますが、親鸞聖人の語られたお言葉として言われております。しかし聖人ご自身の著作は数多いものの、『教行信証』から『御消息』に至るまで聖人ご自身の著作には一度も「宿業」という言葉は出てまいりません。
 
 「宿業」という言葉は確かに大事な言葉なのですが、ややもすると本来的ではない理解、つまり現在の自己や他者を過去の業の結果が全面的に現在を規定していると捉えてしまう事には注意をしなければなりません。
 親鸞聖人の宿業観は飽くまでも聖人ご自身の内容であり、「あなたの現在の在り方はあなたの過去の業報によってそうなっているのだ」と仰っているわけではないと理解しておかねばなりません。
 
 米沢さんがどのような意図で「業をつくす」と仰ったかは、その言葉の背景を知らなければ申し上げる事ができません。しかし、座談会の参加者の方々が、その言葉の難解さに触れつつご自身の考えを熱心に述べられた事それ自体に「学び」を感じさせていただきました。

ナンマンダブツ





2017年6月11日日曜日

一蓮院師秀存談合録に聞く

 私たちは自己中心的な愚痴によって自分の好きな事、都合の良い事などに対して貪欲(とんよく:むさぼり)を起し、ひたすら貪り求めます。
 それとは反対に自分の都合に合わなくなると瞋恚(しんに:いかり)を起し、怒り腹立ち憎しみに振り回されるようになります。その結果として他者を傷つけ苦しめるのですが、同時に自分自身も傷ついているものです。

 その様な経験は誰しもあるものですが、自分が引き起こしているという事実に対しては、その都合の悪さから直視しようとしません。しかも、その性質は死ぬその時まで続き、決して失ったり無くなるようなものではなく常に私たちから離れるものではありません。
 そのような姿を親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」と仰せられました。『一念多念文意』に


「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」


 と言われています。『一念多念文意』は親鸞聖人八十五歳の時に著されたものです。八十五歳になられて体の衰えを感じておられたに違いないでしょうが、なお煩悩の盛んなる事も感じておられたようです。
 私たちの感覚では年齢を重ねていくと人間性が整えられて模範のような生き方が出来るように思いますがそうではなく、模範的な人であろうが無かろうが腹を立てたり嫉んだりする事は死のその時まで続くものであると仰っています。
 このお言葉から愛欲に溺れ瞋恚の炎に身を焦がしながら生きて行かざるを得ない我が身を深く慚愧された聖人の御心が感じられてくるものであります。


「五劫の御思案も衆生のため、兆載永々劫のご修行も凡夫のためと、一筋にお勤め下されたは、凡夫を凡夫のままに助けようとの思し召し一つのためじゃ。深甚と云うも一心一向と云うも、この仏の「そのまま助ける」の思し召し。唯衆生を一筋に助けたいの思し召しを聞くよりほかはない。御当流は他力じゃからには、仏の御心の外に、凡夫に一心もなけりゃ、信心もないと云うものじゃ。」(一蓮院秀存談合録)


 煩悩の盛んな私たちから出てくる願いは自身を焼き苦しめ悩ますものとなります。その願いが成就する世界を「火宅」(かたく)とよび、燃え盛った家に平気な顔をして居座っているのが煩悩具足の私たちであります。
 その姿を憐み悲しみ「唯(ただ)衆生を一筋に助けたい」という如来の大悲心のみ声が火宅に居る事実を知らせ、自身の迷妄を解き放ち、自分の願いを叶える人生がどれほど虚しい事であるかを知らせ、如来の願いに適う人生こそが本当の安住と豊かさを得る最勝の道であるという事を示されます。
 
 「ナンマンダブツ」は阿弥陀仏が名となり声となって喚びつづけ、「ただ一筋に助けたい」という切なる願いが「かたち」となって顕現しているものです。
 ナンマンダブツの一声が阿弥陀仏のかたちでありナンマンダブツの一声が大悲心の顕現です。ナンマンダブツを聞くということはナンマンダブツの「仏」に遇う事であります。「このように思ったら良い」やら「そのように思うものですね」というようなことではなく、ナンマンダブツを聞くがお助けを聞いているという事なのです。

ナンマンダブツ







2017年6月4日日曜日

2日 念佛座談会

今回のテキストは『松並松五郎念佛語録』からです


・二十年悪い奴と知っても、吾々の知れたのは浅信と言うて、浅い信である。仏様は久遠劫来より三世に渡って、助からざる者と、見込んで助ける南無阿弥陀仏に成り給う。機と法とが一つの南無阿弥陀仏を頂けば、ある片面に我が機を照らし出され、ある片面にその者この機を助ける法を照らし出す。機(助からぬ)と法(助ける)、離すに離されぬ。南無阿弥陀仏を判り易く、二つに分けて御教化下されたのが、二種深信であります。私や、あなたが如何に知れたとて浅信、あさい信です。仏様は過去、現在、未来あい通じて、これから造る罪まで見抜いて、助からざる者と、仏様が、悪業のかたまりと見抜かれた事を深信と言うて、深い信である。其の者を救う、これが法の深信です。それが南無阿弥陀仏になりまします。南無阿弥陀仏を頂けば、頂くとは念仏申すこと、称えること、称えるままが悪い奴、助からぬ私やと言うている事でもあり(機の深信)、其の者を助けると言う呼び声でもあるのです(法の深信)。亦有り難うと歓喜でもあるのです。お礼にもなるのです。頼みもせぬに、私の知らない昔に、私の助けられる南無阿弥陀仏に成りまします、声の仏にてまします。生まれたままを助けるとある南無阿弥陀仏なるに。あなたに苦労させる、かける仏でない。苦労は親がして成就したもう南無阿弥陀仏を頂くだけ、称えるだけ、頂くだけ。呼び声なるが故に、口に現れ給う念仏を聞くだけ。


 『松並松五郎念佛語録』をテキストとして座談会を開いているわけですが、ちなみに「松並松五郎」という方は僧侶ではありません。
  HPの『松並松五郎語録』の最後に氏の紹介などを載せてあるので一度見て頂ければよいのですが、僧侶でも学者でもなく、小学校中退後工場の職人として働きながら御聴聞され、お念仏に心を開かれた方です。

 松並さんのようにお念仏をよろこぶ方を「妙好人(みょうこうにん)」とも言いますが、そのような方が僧侶や学者ではない在家から出てくるのが浄土真宗の大きな特徴ともいえます。妙好人に関しては多少表現や行動について過大に表現されることもあり多少の批判もあるようですが、仏様の御心をいただく手がかりとなる言葉も沢山あり、妙好人の言葉の方が現代の学者・僧侶よりもすっきりいただけるという事もあります。松並さんや妙好人の言葉にも触れて頂ければと思っております。


 前置きが長くなりました。今回は前回同様のテキストですが、非常に大事な事が記されております。
「なかなか自分の悪を知ることが出来ません」、「地獄に落ちるべき身でありならが本心からそのように思えません」という様な質問が座談会ではよくありますが、松並さんも同類の質問を度々受けていたのでしょう。
 それに対して「吾々の知れたのは浅信」と言っておられます。自分が知る自分の姿というのは都合の良い程度でしか知る事はできません。自分は自分の事を必ずどこかで肯定しているものです。
 ですので「機の深信」というのは「私が決して助からない人間だと思いました」という様な事ではなく、阿弥陀様が私を「助からざる者」と決定(けつじょう)していることなのです。南無阿弥陀仏がお知らせくださるのは分けて二つの側面(助からざる機)(助けるの法)であり、それが二種深信ということであります。改めて「悪い奴でした」と思わなくてもナンマンダブツと称えている事が「悪い奴でした」といただいている事にもなるのです。深信はもともと南無阿弥陀仏にあるものです。

何度もいただくべき言葉であると言えましょう。
ナンマンダブツ







2017年5月24日水曜日

22日 真宗同朋会

ここ数日は、まるで真夏のような暑さですね。
22日の同朋会も終わりました。

七尾から十数名の方がご聴聞に参られたので、いつもの雰囲気とはまた違ったものがありました。
しかし、丁度塀を修復中で時々大きな音がしており少々聞きづらい事もあったかとおもいますが、みなさん熱心にご聴聞されておりました。

さて、法話はいつも通りお念仏のお話しです。


・「汝の一切の罪は我が引き受けて罪を除き仏にする」一言で言えば南無阿弥陀仏は「汝を必ず助ける」のお誓いであり大悲心であります。

・一声一声のナムアミダブツに仏になる全部が仕上がっている。それを受け取るだけです。


「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とは一言で言えばナムアミダブツのいわれを素直に聞き受ける事に他なりません。しかし、素直に聞けない難しさがあるのも確かな事です。ご聴聞は「今」だれでも一声称え聞くところに阿弥陀仏に遇えるようになっている事を聞くということです。口から一声出てくるお念仏は私に届いている阿弥陀仏のお出ましです。称え聞き、念仏に親しみつつのご聴聞でお育てされていくものです。

ナンマンダブツ

2017年5月14日日曜日

念佛座談会

12日念佛座談会を行いました。
今日はご参加の方から、

「先方が毒を吹きかけようとも、こちらに解毒剤があるのだから何も案ずることも行き詰まる事もない。」

という言葉にみなさんどうお感じでしょうか?という事で、参加者の方々に感ずるところを話していただきました。
 ちなみにこの言葉は藤並天香さんの『人を継ぐ人』に収められているとのことです。

 藤並天香さんは多田鼎師を仰いでおられた方で、戦争反対を声高に叫んだ事によって特別高等警察に連行され片耳が聞こえなくなるような仕打ちを受けたという方です。

僧侶でしたが生涯寺に住すことなく生活は困窮を極めていたのですが、多田師同様社会的弱者に対して真っ先に行動を起こされ、厳しい状況の中でも如来の中に生きた人であったようです。
 この言葉を当時の藤並さんの心情ということではなく「今」私においてどのように受け取ったのか、そのことをそれぞれ話していただきました。

今日のテキストは『松並松五郎語録』から、少々長めです。

二十年悪い奴と知っても、吾々の知れたのは浅信と言うて、浅い信である。仏様は久遠劫来より三世に渡って、助からざる者と、見込んで助ける南無阿弥陀仏に成り給う。機と法とが一つの南無阿弥陀仏を頂けば、ある片面に我が機を照らし出され、ある片面にその者この機を助ける法を照らし出す。機(助からぬ)と法(助ける)、離すに離されぬ。南無阿弥陀仏を判り易く、二つに分けて御教化下されたのが、二種深信であります。私や、あなたが如何に知れたとて浅信、あさい信です。仏様は過去、現在、未来あい通じて、これから造る罪まで見抜いて、助からざる者と、仏様が、悪業のかたまりと見抜かれた事を深信と言うて、深い信である。其の者を救う、これが法の深信です。それが南無阿弥陀仏になりまします。南無阿弥陀仏を頂けば、頂くとは念仏申すこと、称えること、称えるままが悪い奴、助からぬ私やと言うている事でもあり(機の深信)、其の者を助けると言う呼び声でもあるのです(法の深信)。亦有り難うと歓喜でもあるのです。お礼にもなるのです。頼みもせぬに、私の知らない昔に、私の助けられる南無阿弥陀仏に成りまします、声の仏にてまします。生まれたままを助けるとある南無阿弥陀仏なるに。あなたに苦労させる、かける仏でない。苦労は親がして成就したもう南無阿弥陀仏を頂くだけ、称えるだけ、頂くだけ。呼び声なるが故に、口に現れ給う念仏を聞くだけ。

 私の口に現れ給う念仏のいわれを聞く、つまり「仏願の生起本末」を聞くという事ですが、こちらの松並さんの言葉にはそれが簡潔に述べられています。
 よくわからない方もおられるでしょうが、「わかった」となるのも怪しい場合があります。わかならければわからないまま口から現れるお念仏の声に親しみ、そのお念仏の云われを聞くところに真宗の聞法はあります。 

 ナンマンダブツ





2017年5月8日月曜日

輪読座談会

毎月6日の午後19時より輪読会をしております。
テキストは『聖典セミナー 教行信証「教行の巻」』(梯実圓)です。

 今回はp319 「親鸞聖人の他力不思議」からです。
「弁長聖人や良忠聖人と親鸞聖人の他力観の違いは各々の人間観や阿弥陀仏の味わいの違いがある」と梯先生は仰っています。
 
 弁長上人は全分の他力説を批判して「このこと極めたる僻事なり」といい、良忠上人は行者の三学力(戒定慧)と仏の加被力が相俟って修行が成就すると考えられました。親鸞聖人は自力を捨てて他力に帰することを明かしたのが法然聖人の浄土宗の真実義(浄土真宗)であると主張されました。

 弁長上人や良忠上人は、自分の力に阿弥陀仏の力が加わることによって浄土に生まれるという事、つまり自力に対して信頼があったのでしょう。しかし、親鸞聖人の人間観からはそのような自力に対する信頼はみられず、ただ阿弥陀仏の本願力を憑む事しか自らが救済される道を見出すことが出来ないという徹底した自力の否定であったといえます。
 
 人間観の違いから他力観も大きく異なっていった法然門下ですが、それによって「念仏している」という一つの事実を自分の行いとみていくか、阿弥陀仏の利他の活動相であるといただていくかの違いがでてきたということであります。

ナンマンダブツ

次回は6月6日です。
どなたでもご参加できます。
テキストはコピーでも用意しています。


2017年5月3日水曜日

2日 念佛座談会

今年は玄関前のヒラドツツジが沢山花をつけました。
去年は軍配虫の影響かわかりませんが、あまり咲かなかったので今年もどうかと心配しておりましたら、その心配を余所に見事に咲いてくれてくれました。

さて、今回の座談会は参加者の方から「易往而無人」についての質問があり、他の参加者共々考えてみました。

「易往而無人(いおうにむにん)」とは”阿弥陀仏の本願力によるから、本来浄土に往生する事は容易な事であるが、自力の心をすてて真実信心を得る人が少ないので、浄土に生まれる人がすくない”と、大体こういうお心になります。自力の心、つまり自分の思っている心なのですが、阿弥陀仏の仰せよりも自分の想定しているような解決方法などを頼りにしているということです。

 自分の中で自分なりの解決法を持っているのであれば阿弥陀仏の救済を受け入れる事はありませんが、本当に阿弥陀仏を憑(タノ)むのであれば、疑いなく慮りなく受け入れる事の外、何もありません。浄土に生まれる人が少ないというのは、それほど自分を頼りとしているのだということでありましょう。


今回のテキスト

・〈お念仏の御縁にあう〉と言う事は、乞食が億万長者になったより、まだまだえらい事や。この仕合わせを得させて頂いた事を、それ程にも喜ばん。これは如何なる事かと思いながら床に着いた。夢に「朝顔や その日その日の 風まかせ 南無阿弥陀仏」と出た。なるほど、こんな者が嬉しいと思っても、思わなくとて一緒や。私の心は阿弥陀様の方には、勘定の中に入っている。私は私のまま南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、それでよいのに、私が承知せぬだけのこと。何か変わり目が見たいのが、私等の心、それはいらざる事や。  

・江州大浜の吉右衛門の老婆いわく。  この婆々は一生涯信心がえたいえたいと願いましたけれど、信心与えると、この婆々は怪我すると思召し、とうどう今日まで信心与えて下さらなんだ。まるきり助けられねば参られぬ婆々であったと、御助けに逢わせてもらいました。


理解は必要ありません。
そのまま味わってみてください。

ナンマンダブツ ナンマンダブツ




半々ですね


暫く楽しみます