2018年1月15日月曜日

寺報の更新をいたしました

 新年最初の更新をいたしました。

 昨年の6月より滞っておりましたお寺の新聞を12月までアップロードしたしましたので、是非とも目を通してください。寺報のHP更新がいつも遅いので申し訳なく思っておりますが、寺報自体は毎月発行しております。
 
 次に音声法話も更新いたしております。
今回は昨年の念佛寺報恩講での住職による法話です。
こちらもどうぞお聞きになってください。

ブログの更新も滞り気味ですが、本年もよろしくお願い申し上げます。

 念佛寺
 





2017年12月28日木曜日

今年の全日程終了いたしました。
 
22日に報恩講も終わり、念佛寺の法座は総て終了いたしました。

 今年は報恩講でお話しをいただいた瓜生崇先生に「仏に遇うまで」を電子書籍化していただきました。
 お忙しい中での電子化で大変な事ではなかったかと思いますが、非常に読みやすく、何と言いましてもあの手軽さは電子書籍化でないと実現できないものではないかと思います。読んで居られない方は是非読んでいただき、読まれた方は他の電子書籍も読まれてみては如何かとおもいます。
 
  年間通じての法座は、御聖教や語録をテキストにあじわっていきましたが、難しいものも多かったのではないかとおもいます。
しかし、多くの質問もあり毎回熱気のこもった法座であったとおもいます。


 来年は6日の「聖典学習会」(午後7時)からです。2日の念佛座談会はありませんのでご注意ください。
念佛座談会は12日からです。

因みに住職は30日まで留守をしております。
よろしくおねがいします。

ナンマンダブツ
 
  念佛寺

瓜生先生

2017年12月8日金曜日

12月 2日 念佛座談会

寒くなりましたね。
今回は松並松五郎さんの歌からです。

・ほれられて 南無阿弥陀仏と 聞けよかし こざかし顔は 弥陀にうときぞ

・聞き分けし 言の葉末を うちはなれ 南無阿弥陀仏と 称え皆人

 今回は座談会の冒頭で松並さんを紹介している新聞記事について住職がふれておりました。
1979年1月の読売新聞に松並さんを紹介した記事があるという事ですが、「著名な妙好人(みょうこうにん)は昭和の初期に絶えたと思われていたが、その系譜は現在も松並氏につづている」との趣旨の記事が掲載されているとのことです。

 「妙好人」というのは浄土真宗の篤信者で鈴木大拙師によって広く知られるようになりました。鈴木大拙師も松並さんを紹介しようとされたそうですが、松並さんはお断りになられたという事です。
 テキストは松並さんの歌ですが、表現が少し難しいかもしれませんね。

1首目の「こざかし顔」、2首目「聞き分けし」というところが問題になってくるところではないでしょうか。
 阿弥陀様の仰せを自分の計らい心なく、そのままその通り聞くということが「信」ということになるのですが、どうしても自分の計らい心が邪魔をしてしまいます。何ごとも自分で解釈しなければどうも収まりがつかないというか、しっくりこないような思いがするものです。これは何も特殊な事ではなくて、何かを得る時には自分の考えや理解を必要とするものです。しかし、その事が阿弥陀様の仰せを素直に聞けない原因でもあります。親鸞聖人は『末燈鈔』で、

摂取のうへには、ともかくも行者のはからひあるべからず候ふ。浄土へ往生するまでは不退の位にておはしまし候へば、正定聚の位となづけておはしますことにて候ふなり。まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからひにて発起せしめたまひ候ふとみえて候へば、信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべしとみえ候ふなり。ともかくも行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ。あなかしこ、あなかしこ。
 と仰っておられます。


 最後の方に「ともかく行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ。」とあります。こちらのはからいは”ちりばかりも”いらず、自分に理解できず、わからないままに聞かせて頂くばかりで助けるまで仕上げて下さっています。

 聞き分け知り分けは一つも必要なく、私が信じるということにも用がなくなります。「こざかし顔」や「聞き分け」は私がどうにかなる出来るような事ではありません。その私だからこそナムアミダブツとなって私に届いてくださる一声一声が阿弥陀様の大悲の御声であると聞かせていただくばかりであります。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ

次回が12日です。
念佛寺報恩講の案内 → こちら



2017年11月25日土曜日


念佛寺 報恩講 のご案内
 
 報恩講とは宗祖親鸞聖人の御祥月命日に勤められる法要で、念佛寺に於きましては毎年12月22日に勤めております。

  親鸞聖人のいただかれた念佛往生の教えに遇い、自らの帰依処を教えていただいた御恩に報謝し、いよいよ聞思深めていく場でもあります。
 真宗門徒にとりまして大切な法要です。お参りください。

御講師は昨年に引き続きまして瓜生崇先生にお越しいただく事となっております。

 日時 : 12月22日 (金)

 時間 : 午前10時~  お勤め 後 住職法話
            
            休憩
    
               午後 2時~   お勤め 後 御講師法話


 持ち物: お念珠 (お勤めの本はこちらで用意しております)

 諸事項:  駐車場はありませんのでなるべく公共交通機関をご利用になられるか周辺パーキング
       を利用ください。 
  
 念佛寺報恩講 御講師 案内
 東近江市 真宗大谷派玄照寺 瓜生崇先生



2017年11月15日水曜日

12日 念佛座談会

〇播州の老婆二人後生が苦になり、居ても居られずとて同心して御旧跡回りを思ひ立ち、先づ御本廟に詣し、京より來りぬ。四五日滞在聴聞して東に向ひぬ。七十日も過ぎて、或日の夕方、綿の様になりて我寺に着きぬ。さて曰く。「長い間御旧跡を巡拝し、廣く知識を尋ね歩いたが、なんでもなかつた。体はぐたぐたに疲勞てくる。持つてゐた財布は空になる。もうもうこの私はどうしてみても助からぬ、生れながらの盲人であつたと、今度は本復させてもらひました。」

〇法を聞くのが、聞く事と如来の御助けと別に思はるゝゆゑ、聞いては居れどそれほどに思はれぬと云ふ。淨土真宗の法は直に御助けにあづかるのなり。聞き開くと云ふ。骨折つて聞くと、さてはさうかと思ひとらるゝばかりで、疑ひはるゝと我力でないと知られる。それ故、いつどう聴聞してゐる内に疑ひはるゝかも知れぬ。聞くが直に御助けに預るの故、仰せが私の領解なり。 「我等はたゞ耳に聞く事に思へども、耳に聞くのが直に御法の宝を我身に御與へなり。無耳人に聞く耳を御與へぢや。」(師)
     
〇一日(あるひ)等覚寺を京都の寓に訪ふ。師曰く。 「聞くばかり。聞いて向うにあるものを取り込むやうに思ふは違ひなり。聞くばつかりと云ふことまことに尊い」 と歸路太助隠居の處に立ち寄り、此事を語りたれば、太助大いに驚き、 「えらいことを聞いてきなされたきなされた、私は今初めてゞある」とて、非常に喜ばる。衲惟うに、三十年來等覚寺に詣でゝ聴聞してゐる太助が、今初めてぢやと尊み喜ぶ相をみて、「信の上は何時もめづらしく初めたるやうにあるべきなり」とは、このことかと更に深く思ひつけり。      


今回は『求法用心集』より。

「聞くばかり。聞いて向うにあるものを取り込むやうに思ふは違ひなり。聞くばつかりと云ふことまことに尊い」

 ここで言う「聞いて向こうにあるものを取り込む」とは、教えを自分で解釈し理解し自分の考えを持つということです。教えを”掴む”ともいいます。
 
よくあるのですが、有名な先生のご法話などを聞いていると、その先生の意見などを聞き、自分で理解することが出来た事で教えを聞けたと思ったりします。「阿弥陀様の仰せ」と「先生の意見」を聞き分ける事が出来るのであれば何も問題はないのですが、先生の意見を阿弥陀様の仰せと聞くならば、少し問題があるように思います。
 先の師の言葉にもありますが、「耳に聞くのが直に御法の宝を我身に御與へなり」とあります。私に”直”に届いている阿弥陀様の仰せを聞くのが、「聞くばかり」ということで、いくら法座であっても先生の聞いた後の意見を聞き、自分で理解出来たということになるのであれば、それは聞いたという事にはなりません。先生の言葉ばかり追いかけて何十年聴聞を重ねても、結局のところ自分の解釈で握りしめた苦しい論理しか残りません。
佐々木蓮麿師が

「仰せが仏法である。聞いた心に用事なし」

と仰ったということです。
先生自身の領解はどちらでも良いのです。「~先生がこうおっしゃっていた。」などという事はどちらでも良い事です。

阿弥陀様の仰せ、私に直に届いている仰せ、それが仏法です。
私がどのように理解しようが感じようが、そんな事は何もいりません。
まして先生がどう領解しているかなど全く関係のない事です。

阿弥陀様はただ「必ず助ける」と仰せられているわけです。
阿弥陀様はどう仰っておられますか?

掴んでいるものが無ければ、仰せが私の領解となるのです。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ

※引用文に現代的に不適切な言葉が用いられておりますが、著者に配慮しそのまま転載しております。







2017年11月4日土曜日

真宗本廟(東本願寺) 報恩講のご案内

本年も、11月21日から28日に、真宗本廟「報恩講」をお迎えいたします。 報恩講とは真宗門徒にとって一年の中でもっとも大切な仏事で、宗祖親鸞聖人の御祥月命日までの一週間に勤められる法要です。宗祖親鸞聖人の教えに遇い、自らの依りどころを教えていただいた御恩に報謝し、教えを聞信して、ともに念仏申す身となっていくことを誓います。

皆様のご参拝を心よりお待ちいたしております。 (本山HPより)

真宗本廟報恩講のご案内



報恩講法要日程・式次第

2017年 御正忌報恩講 日程表(PDF:442KB)

2017年10月16日月曜日

12日念佛座談会

今回のテキストは『松並松五郎語録』より


世の人は、物事をひねって聞く。その時、人は言訳をする。そんな言訳はいらざること。言いさえせねばなんとも言わぬと、何時も自分をふり返る。ひねるから御法までひねって聞く。宗祖様の教、弥陀の本願即ち真宗の教えは、易中の易で、やすいのです。易いとは、向こうのままを聞く。聞くとは、太鼓の音を太鼓と聞くこと。それを遠い処から聞くと、太鼓の音かなーぐらいに聞いている。人が、太鼓とちがう、あれは他の何々の音やと言えば、そうかいなーとはっきりしない。我が目の前で太鼓がなれば、聞けば人が何と言うても狂わぬ。この南無阿弥陀仏は如何なる事かと、事の起こりを聞くと、(称えてござるお方に)仏願の生起本末を聞けば、もう狂わぬ。その後は念仏の道歩めばよいものを、道理理屈ばかり聞くから、本道へ出られ難い。    


 松並さんの言葉は平易な言葉で語られ、改めて解説することを必要としないものばかりです。
今回の言葉もそうなのですが、そのまま読んで読んだままいただけるのではないかとおもいます。

 最後の方に「仏願の生起本末」という言葉があります。この言葉はあまりよくわかりませんね。
これは親鸞聖人の『教行信証』(信巻)に


しかるに『経』に聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。


という言葉の事であります。
 阿弥陀仏の本願は何故おこされ誰のためにどのように誓っておられるのか、という事になるわけですが、このままでは助かる縁すらない私を憐み、必ず助けると誓われナムアミダブツの名となり声となってくださった、ということであります。

 その名を聞く、名声(みょうしょう)を聞くのが「聞」ということです。ですので、生起本末の意味を知るということはもちろんですが、ナムアミダブツの声を聞く、ですから松並さんは「(称えてござるお方)」と仰っているのでしょう。仏願の生起本末を聞くという事もそうなのですが、仏法の道理理屈を聞く事を聴聞といいます。これは悪い事ではありません。

 しかし、お念仏の出ないお方の道理理屈”ばかり”聞いていると、「今」ナムアミダブツ、ナムアミダブツと私の口から出る声を聞かず、声を阿弥陀様と気付けず、知識的欲求の満足感にとどまってしまいます。
 ですので「(称えてござるお方)」というのは声の阿弥陀様に出遇った方、その方から「仏願の生起本末を聞け」ということになるのでしょう。
 我が目の前で太鼓はなります。
 ナムアミダブツとはっきりと聞こえます。
 私の口からはっきり聞こえるナムアミダブツは
 大悲招喚の御声であります。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ
  
次回念佛座談会は11月2日です。
難しい事はしていませんのでお気軽にお越しください。
お待ちしております。
            念佛寺