2017年7月16日日曜日

8月の予定

 本格的に暑くなってまいりました。
皆様いかがお過ごしでしょうか?
8月の念佛寺の予定をお知らせいたします。


2日   念佛座談会  午後3時~5時半頃

6日   聖典講座   午後7時~9時 

10日 盂蘭盆会   午後2時~4時

となっております。
12日念佛座談会 ・18日真宗入門講座 ・22日真宗同朋の会 は休会ですのでお間違いのないようよろしくお願い申し上げます。

念佛寺

詳しくは 念佛寺HPまで http://nenbutsuji.info/




12日 念佛座談会

今回は『香樹院徳龍師』の言葉より、


・如来の勅命一つが、すべてのすべてじゃ。勅命を聞いてからの用事は、助けられた御大恩を喜ぶばかり。

・謂われを聞いてから信ずるのではない。お助けの謂われこそ、金剛堅固の私の信心であることを聞くのである。

・ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば、誰でもお慈悲はとどくのである。


「ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば」とありますが、私たちが自身の心を観(み)るという事は果たして出来うるのでしょうか。世間では、自分の心は自分がよく知っているものであり、他でもない我が心を自分自身以外の誰かが自身よりも知っているなどということは決してないと思っています。更には我が心を自制出来るものとして捉えているものです。
 
 しかし、縁さえあれば瞋り、腹立ち、嫉み、妬みというような心が自分の想定を超えて突如として沸き起こってくるものでどうにもなりません。後になって後悔をしたり詫びたりという大変な事態になることもしばしばあります。その時は、申し訳ない気持ちで一杯になりもしますが、時間が経てばいつもの私に戻っているものです。
 
 そのような無思慮無自覚な私たちに「ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば」と、香樹院師は仰っているわけですが、決して私たちの主観に於いて知る事が出来ると思われているわけではありません。阿弥陀仏の「必ず助ける」との本願のお謂われを聞く中に、決して助からざる者だと照らし出され、そのような者だから必ず助けると願われ建てられた阿弥陀仏の本願が、大悲招喚の声の仏となって私の口からナンマンダブツと出でて、その大悲の御声を聞いてくれよとの思し召しがそこのあるのです。

一声一声
如来のお出まし
一声一声
浄土真宗
     (木村無相)
 
ナンマンダブツ







2017年7月8日土曜日

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真宗大谷派 念佛寺

2017年7月3日月曜日

7月2日 念佛座談会

今回のテキスト「木村無相さんの便り」・松原致遠師「ただ念佛して」より、


〇ただこの、他力廻向の如来の大悲心、即ち、信心の智慧、佛智によってのみ、無い無いづくしの「我が機」、逆謗センダイ、無佛法、無信の「我が機」ということが思いしらされるのであって、いつの間にか、我が、煩悩妄念の意業の奥に、背後に、主体的に、忍び込みたまいし、如来の願心、「称我名字、若不生者不取正覚」の如来の大慈、大悲心、佛智のホカに、ナニか、「信心」というようなモノガラがあるのではなくて、「信心」とは、ワレラが、愚悪、無信の、無佛法の自性、本性の、意(ココロ)の背後というか、奥というか、にいつの間にか忍び込みたもうて、「我が堕ちる実機」のスガタをしみじみと、明らかに、知らしめたまい、かかるワレラは、如来廻向のただ念佛よりほかに、出離の道はないとつくづく、しみじみ、思い知らされたもうを、「信心」と名づけるのであって、ウスカワマンジュウの中身は、アンコであるように、「他力信心、他力信心」といっている「真実信心」の中身は、「アンコ」は、如来の助けんとおぼしめしたちける本願、願心」のことなのですよ。(木村無相)

〇称我名字の仰せのままに、名号を称念することに於て、最もありがたく感ぜらるることは、「すくひ」を求める必要がなくなること、従って救済者を探し求める必要がなくなることである。(松原致遠)

〇念佛一つとは言っても、「念佛する事ではない。「我が名を称えよ」の仰せが聞こえて来れば、その仰せ出さるる願心の内容たる自己のすがた、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界を自らの内に発見するのである。このとき、その照らすものの前にひれ伏して、おのづから念佛まをさんとおもひたつこころ(自らのはからひをすてる心)が起こるのである。ここにこそ、まことに仰せ一つに、ありあまるよろこびを感ずるのである。(松原致遠)


 浄土真宗は「阿弥陀様のひとり働き」「他力の信心」というが、お寺にも来ない、佛様の話も聞かない、念佛も申さない人が突然「信心いただきました」とはまずなりません。やはり、念佛聞法するという経験が一つありますが、あまりそこに立ち入った話を聞くことがありません。木村無相さんはそのような事をお手紙の中の一部で記されているので、それを紹介させていただきました。
 
 木村さんの言葉に「しみじみ」や「いつの間にか」とあります。ナムアミダブツを聞く一つにおさまるのですが、称えては聞き、聞いては称えるところに如来の大悲心がしみ込んでくるというお心でありましょう。「お念佛」を軽く考え、論理的な話に重きを置くような風潮がありますが、冷たい論理で私たちは助かりませんし、論理は思考の内にある為に自力と言わざるを得ません。木村さんの詩に、


道がある 道がある    
たった一つの道がある    
ただ念仏の道がある    
極重悪人唯称仏
とあります。


 称えさせ、聞かせ、信じさせる道をつけて下さったのが阿弥陀様のご本願であります。もしかするとお寺にも来ず、仏法をも聞かず、お念佛も申さない方で信心をいただくという方がおられるかもしれませんが、やはり「我が名を称えよ」に込められたる如来様の大悲心をしみじみ聞かせて頂くところに温かいものを仄かに感じさせられるのであります。

ナンマンダブツ






2017年6月16日金曜日

12日 念佛座談会

 関西は梅雨入りして暫く経ちますが、雨の気配はありませんね。
余談ですが、「梅雨」の「梅」はそもそも黴菌の「黴(ばい:カビ)」ということらしいですね。
長雨によって黴菌が発生しやすい時期だという事ですが、あまりにも語感が悪いということで黴→梅に変換されたようですね。

 さて、今回も参加の方から疑問や質問がありました。

「『業をつくす』と聞いてみなさんどのようにおもいますかね?」

 と参加者の方々に対して質問されました。
この様な質問が参加者の中でなされるという事は非常に有難い事ですね。

 「業をつくす」というのは一時前はよく使われていた言葉のようです。(最近はあまり聞きません)
その方は米沢英雄(福井の人、医師、)さんの本でこの言葉に出会われたようです。
 業というのは広義で言えば「行為」や「結果を引き起こすはたらき」ということになります。
しかしこれだけでは充分ではなく、その行いが行為者に残っていく影響も含めて業と言います。

 釈尊が業について説いた経典は非常に多いわけですが、とりわけ知られているのが『スッタ・ニパータ』(経集)の中の『ヴァーセッタ』の質問に


「人は生まれによって〈バラモン〉たるにあらず
 生まれによって〈バラモン〉たらざるにあらず
 人は行為によって〈バラモン〉となり
 行為によって〈バラモン〉たらぬものとなる」


ここでいう「バラモン」は四姓(身分制度)やバラモン教や司祭階級のそれではなく、釈尊の仰る「バラモン」は『ダンマパダ』に


「前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人―― かれを われは 〈バラモン〉と呼ぶ」


と「聖者」として語られてあります。

 良い家柄に生まれたから良い人ではなく、その行いによって良い人になるのだ、というような事なのですが、釈尊ご自身がカースト制度に対して批判された言葉として受け取る事出来ます。
 この「業」の考え方は非常に大切で釈尊の個人的な話ではなく、現代を生きる私たちもまた生まれや人種、民族、宗教などによって人を判断し差別し分断する事があります。
 
 「あの人は~の生まれだ」とか「あの人は~教の人だ」と言って「行為」とは無関係の次元で区別、差別、批判をしたり、或いは、されたりしています。
 そのような事自体を釈尊は批判し、人はその人自身の意思によってその行為を選択し、それがその人の在り様を定める決定要素なのだと仰っています。。
 
 それと、これも非常に重要な事なのですが、業説を「運命論」のように理解するのは注意しなければなりません。
 『歎異抄』に「宿業(しゅくごう)」という言葉が出てきますが、親鸞聖人の語られたお言葉として言われております。しかし聖人ご自身の著作は数多いものの、『教行信証』から『御消息』に至るまで聖人ご自身の著作には一度も「宿業」という言葉は出てまいりません。
 
 「宿業」という言葉は確かに大事な言葉なのですが、ややもすると本来的ではない理解、つまり現在の自己や他者を過去の業の結果が全面的に現在を規定していると捉えてしまう事には注意をしなければなりません。
 親鸞聖人の宿業観は飽くまでも聖人ご自身の内容であり、「あなたの現在の在り方はあなたの過去の業報によってそうなっているのだ」と仰っているわけではないと理解しておかねばなりません。
 
 米沢さんがどのような意図で「業をつくす」と仰ったかは、その言葉の背景を知らなければ申し上げる事ができません。しかし、座談会の参加者の方々が、その言葉の難解さに触れつつご自身の考えを熱心に述べられた事それ自体に「学び」を感じさせていただきました。

ナンマンダブツ





2017年6月11日日曜日

一蓮院師秀存談合録に聞く

 私たちは自己中心的な愚痴によって自分の好きな事、都合の良い事などに対して貪欲(とんよく:むさぼり)を起し、ひたすら貪り求めます。
 それとは反対に自分の都合に合わなくなると瞋恚(しんに:いかり)を起し、怒り腹立ち憎しみに振り回されるようになります。その結果として他者を傷つけ苦しめるのですが、同時に自分自身も傷ついているものです。

 その様な経験は誰しもあるものですが、自分が引き起こしているという事実に対しては、その都合の悪さから直視しようとしません。しかも、その性質は死ぬその時まで続き、決して失ったり無くなるようなものではなく常に私たちから離れるものではありません。
 そのような姿を親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」と仰せられました。『一念多念文意』に


「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」


 と言われています。『一念多念文意』は親鸞聖人八十五歳の時に著されたものです。八十五歳になられて体の衰えを感じておられたに違いないでしょうが、なお煩悩の盛んなる事も感じておられたようです。
 私たちの感覚では年齢を重ねていくと人間性が整えられて模範のような生き方が出来るように思いますがそうではなく、模範的な人であろうが無かろうが腹を立てたり嫉んだりする事は死のその時まで続くものであると仰っています。
 このお言葉から愛欲に溺れ瞋恚の炎に身を焦がしながら生きて行かざるを得ない我が身を深く慚愧された聖人の御心が感じられてくるものであります。


「五劫の御思案も衆生のため、兆載永々劫のご修行も凡夫のためと、一筋にお勤め下されたは、凡夫を凡夫のままに助けようとの思し召し一つのためじゃ。深甚と云うも一心一向と云うも、この仏の「そのまま助ける」の思し召し。唯衆生を一筋に助けたいの思し召しを聞くよりほかはない。御当流は他力じゃからには、仏の御心の外に、凡夫に一心もなけりゃ、信心もないと云うものじゃ。」(一蓮院秀存談合録)


 煩悩の盛んな私たちから出てくる願いは自身を焼き苦しめ悩ますものとなります。その願いが成就する世界を「火宅」(かたく)とよび、燃え盛った家に平気な顔をして居座っているのが煩悩具足の私たちであります。
 その姿を憐み悲しみ「唯(ただ)衆生を一筋に助けたい」という如来の大悲心のみ声が火宅に居る事実を知らせ、自身の迷妄を解き放ち、自分の願いを叶える人生がどれほど虚しい事であるかを知らせ、如来の願いに適う人生こそが本当の安住と豊かさを得る最勝の道であるという事を示されます。
 
 「ナンマンダブツ」は阿弥陀仏が名となり声となって喚びつづけ、「ただ一筋に助けたい」という切なる願いが「かたち」となって顕現しているものです。
 ナンマンダブツの一声が阿弥陀仏のかたちでありナンマンダブツの一声が大悲心の顕現です。ナンマンダブツを聞くということはナンマンダブツの「仏」に遇う事であります。「このように思ったら良い」やら「そのように思うものですね」というようなことではなく、ナンマンダブツを聞くがお助けを聞いているという事なのです。

ナンマンダブツ







2017年6月4日日曜日

2日 念佛座談会

今回のテキストは『松並松五郎念佛語録』からです


・二十年悪い奴と知っても、吾々の知れたのは浅信と言うて、浅い信である。仏様は久遠劫来より三世に渡って、助からざる者と、見込んで助ける南無阿弥陀仏に成り給う。機と法とが一つの南無阿弥陀仏を頂けば、ある片面に我が機を照らし出され、ある片面にその者この機を助ける法を照らし出す。機(助からぬ)と法(助ける)、離すに離されぬ。南無阿弥陀仏を判り易く、二つに分けて御教化下されたのが、二種深信であります。私や、あなたが如何に知れたとて浅信、あさい信です。仏様は過去、現在、未来あい通じて、これから造る罪まで見抜いて、助からざる者と、仏様が、悪業のかたまりと見抜かれた事を深信と言うて、深い信である。其の者を救う、これが法の深信です。それが南無阿弥陀仏になりまします。南無阿弥陀仏を頂けば、頂くとは念仏申すこと、称えること、称えるままが悪い奴、助からぬ私やと言うている事でもあり(機の深信)、其の者を助けると言う呼び声でもあるのです(法の深信)。亦有り難うと歓喜でもあるのです。お礼にもなるのです。頼みもせぬに、私の知らない昔に、私の助けられる南無阿弥陀仏に成りまします、声の仏にてまします。生まれたままを助けるとある南無阿弥陀仏なるに。あなたに苦労させる、かける仏でない。苦労は親がして成就したもう南無阿弥陀仏を頂くだけ、称えるだけ、頂くだけ。呼び声なるが故に、口に現れ給う念仏を聞くだけ。


 『松並松五郎念佛語録』をテキストとして座談会を開いているわけですが、ちなみに「松並松五郎」という方は僧侶ではありません。
  HPの『松並松五郎語録』の最後に氏の紹介などを載せてあるので一度見て頂ければよいのですが、僧侶でも学者でもなく、小学校中退後工場の職人として働きながら御聴聞され、お念仏に心を開かれた方です。

 松並さんのようにお念仏をよろこぶ方を「妙好人(みょうこうにん)」とも言いますが、そのような方が僧侶や学者ではない在家から出てくるのが浄土真宗の大きな特徴ともいえます。妙好人に関しては多少表現や行動について過大に表現されることもあり多少の批判もあるようですが、仏様の御心をいただく手がかりとなる言葉も沢山あり、妙好人の言葉の方が現代の学者・僧侶よりもすっきりいただけるという事もあります。松並さんや妙好人の言葉にも触れて頂ければと思っております。


 前置きが長くなりました。今回は前回同様のテキストですが、非常に大事な事が記されております。
「なかなか自分の悪を知ることが出来ません」、「地獄に落ちるべき身でありならが本心からそのように思えません」という様な質問が座談会ではよくありますが、松並さんも同類の質問を度々受けていたのでしょう。
 それに対して「吾々の知れたのは浅信」と言っておられます。自分が知る自分の姿というのは都合の良い程度でしか知る事はできません。自分は自分の事を必ずどこかで肯定しているものです。
 ですので「機の深信」というのは「私が決して助からない人間だと思いました」という様な事ではなく、阿弥陀様が私を「助からざる者」と決定(けつじょう)していることなのです。南無阿弥陀仏がお知らせくださるのは分けて二つの側面(助からざる機)(助けるの法)であり、それが二種深信ということであります。改めて「悪い奴でした」と思わなくてもナンマンダブツと称えている事が「悪い奴でした」といただいている事にもなるのです。深信はもともと南無阿弥陀仏にあるものです。

何度もいただくべき言葉であると言えましょう。
ナンマンダブツ