2017年9月23日土曜日

念佛寺 彼岸会 

本日、念佛寺彼岸会を執り行いました。
雨天ではありましたが、遠方よりのお参りの方もおられました。

「お彼岸」というとお墓参りをするイメージがあるようですが、そもそもは「到彼岸」つまり
迷いの境涯からさとりの浄土に至るということです。ですので、一般的なイメージとは少しちがうようです。
迷いの境涯というのは今現在の私の事だと仏教は教えています。
『阿含経』に


「世間の愚かな人々は、おのれ自身、老いるもの、病むもの、死ぬものであり、老いる事、病むこと、死ぬことを避けられぬ身でありながら、他人の老い、病、死を見て、あざけったり厭ったりしている。わたし自身もまた、老いるもの、病むもの、死ぬものであり、老いること、病むこと、
死ぬことを避けられぬ身でありながら、他人の老い、病、死を見て、あざけったり厭ったりすべきであろうか。これは正しいことではない、と。」


 ここには「他人の老い、病、死を見て、あざけったり厭ったりしている」とあります。
私自身も老いや病、死から避けられない身でありながら、どこか他人事であり「私はまだ大丈夫」とか「私はあの様にはならない」と
思っているものです。

 しかし、私たちの思い描いている事は突如として崩れるものです。その度に「あの時もっとこうしておけばよかった」とか「なんでこうなったのか」と嘆き悲しんでいるものですが、その様な事を何度も何度も繰り返しているのが私たちではないでしょうか。その原因は正しい事を正しいと受け取ることが出来ない、つまり真理に暗い事が根本にあるからです。それを仏教では「無明(むみょう)」と言い、その無明が迷いの境涯を描き出しているのです。
親鸞聖人の主著『教行証文類』の総序の文に


「竊(ひそ)かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
(わたしなりに考えてみると、おもいはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである)<顕浄土真実教行証文類 現代語版 本願寺出版>


 無明の闇が破られ迷いを迷いと気付かされ、阿弥陀仏の真実報土に生れる事が迷いの生死を超えていく道であります。それが「到彼岸」の道であります。
 どんなに愚かな者でも真実の報土に生れさせると大悲の誓願を建てられ、迷妄に苦しむ者を喚び覚ます言葉が南無阿弥陀仏のお念仏です。
お念仏を称え、お念仏の声を聞き「我が名を称えよ、必ず助ける」との大悲のお心をその通りにいただく事が迷いの生死を超える道になるのであります。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ






2017年9月17日日曜日

12日 念佛座談会

今回のテキストは「松並語録」です。

「唯念佛して弥陀に助けられまいらすべし」と。
 この唯は、唯でも、唯ならぬ唯であります。私等の唯は軽い。唯で念佛さえ申して居ればよい様に思うて居るが、そうではない。一声一声を聞け。唯これ一つ、助けられる道は唯これだけとのお心。
 二十年の修行も、地位も、学問も、知恵も、何もかも総て擲(なげう)ったお心、お姿が唯というお心。罪も、悪業も何もかも、許されたお言葉が、唯と申されたお心、お姿でしょう。唯とは、総てを説き表わされた一切経が、この唯の中に入っております。如来様の全体が、入ってあること。
 如来様の御心を頂いて、頂きぬかねば、唯念仏してと言う言葉は出ぬ。唯ともうされし御開山様がひざまずいてござる姿が目に見える様な気が致します。我々は御開山様の、御言葉をそのまま頂くべきである。こうだから有難いと言うは、まだ底がある。何が何だか判らねどたのもしいのです。


最後の方に、「こうだから有難い」とあります。
「こうだから~だ」と、自分の考えや理由などを先に述べて結論を出していますが、このような聞き方に対して松並師は「まだ底がある」と仰っています。。
 
 仏法を聴聞する際にこのような聞き方になると少し問題が出てきます。
「こうだから有難い」というのは、「こうだから」ということが無い限り有難くないという事でもあります。何か自分にピッタリくる条件が無いと有難くないというというのは、自分好みの仏法だけしか受け取らなかったり、時には自分の解釈によって教えの内容を自分好みに歪めてから受け取るという場合もあります。
 そうすれば確かに自分なりに受け取るということは出来るのでしょうが、自分で自分の考えに納得したに過ぎません。親鸞聖人は『一念多念文意』に

きくというは、本願をききて疑うこころなきを「聞」というなり。

と仰っています。
「聞く」そのままが信心となるような「聞」は聞いたことに対して自分の先入観や考えなどの夾雑物を挟まないということです。自分の考えで固めるのではなく、また、疑いをもって聞くのではなく、御言葉をその通りに受け入れるということが聞くということなのです。聞けなくしているのが親鸞聖人の場合ですと二十年来の修行の成果も地位も学問も智慧も何もかも総てということになるのでしょうが、何も親鸞聖人個人の話ではなくて、仏法を聴聞している私自身の問題であります。
 
 日常生活で非常に役に立つ学問や智慧、経験というものが、仏法聴聞においては邪魔になりやすいものです。というのもそれらを根拠とし教えを自分色に変えて自分が納得できる形に自分が仕上げて受け入れようとしてしまいます。これでは仏法を頂いたとはいえません。二十年の修行や学問を抛つというのは、お助けに対して自分の考えや能力にもはや何も見出せなくなる、自分という者が何の力も持ち合わせていないという自己に対する信頼感の喪失でもあります。

 そのような自力を信頼する迷妄のこころを破り、必ず浄土に生れさせるという如来の願心が一声一声の言葉となって私の口に届き現れるのは、唯これ一つが汝を必ず助けるとの阿弥陀仏の大悲心のあらわれであります。ただ如来様の声を聞け、一声一声聞け、唯この一つこの一声が仏法全体、如来様全体なのであります。
  
ナンマンダブツ


今月22日は「秋 彼岸会」となります。
どうぞご聴聞してください。









2017年9月3日日曜日

9月2日 念佛座談会

日中の暑さは相変わらずですが、秋を感じるようになりました。
今回のテキストは「松並松五郎語録」より

「念仏申すと、心があれを思い、これを思い、散る、乱れる、何ともならぬ。法然様が『この心には力及ばず、そのまま念仏申すが手にて候』と申してござるから、動くままにしておいて念仏申せ、と教えて下さいますが、私はそれではうなずけません。どうしたものでしょうか」との事でした。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 そこで「千年も万年も光り一つさしこまぬ暗闇の家の雨戸を、一二寸開けると光がさしこんで、ごみとも、ちりとも、煙りとも分からぬものが、一筋にさし込んで見えるでしょう。それは光が入った姿でしょう。家で一番清浄な場所は仏様の御前でしょう。その御前で、あなたの暗闇の口から南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と活き仏が出て下さると、うじ虫がその光に照らし出されて、煩悩妄念が、居苦しくて、居苦しくて、今まで知らなかった悪業が見える見える、散り乱れる。かかる身をと、うちあおぐだけ、呼んでもらうだけ、聞こえるだけ、妄念煩悩を取ってしまえば、あなたがなくなります。煩悩妄念を捨てず、そのままにその呼び声を、あなたが申せば、この呼び声を聞くだけ」。鈴木さん曰く「念仏一つさえ申しているだけですか」「ちがいます。南無阿弥陀仏を持ちかえる必要はありません」。鈴木さんは私の顔を眺めながら「有り難うございます。はいはい南無阿弥陀仏」「はいはい有難うございますを、離れてみなさい」。


鈴木さんという方の質問に対して松並師がお答えしている文章ですが、原文はもう少し長文になります。語録の味わい方に決まりのようなものはありません。語録を読んでいるとその時の情景や空気感といったようなものを味わえるものです。
 一度読んだだけではなかなか伝わらない事があるのでじっくり私の事として読んでみる事をお勧めします。

  今回のテキストは最後の部分をどういただいたらよいか、なかなか難しいですね。

「有り難うございます。はいはい南無阿弥陀仏」
「はいはい有り難うございますを、離れてみなさい」

 私たちは「ただ念佛」と言われても「心を込めて」とか「熱心に」というような事を足してみたり或いは、家内安全や健康を実現する為にお念佛を用いたりもします。
たとえそのような事をしていなくとも、自分なりに考えたなりの方法を優先しがちです。

 しかし、そもそも阿弥陀仏の本願に誓われているお念仏は何の加減もいらず、称えるばかりで助けるお念仏に仕上がっています。そこに何かを加えたり、取り違えたり、持ち替えたりするのは自分のはからいでしかありません。そこを松並師は的確に言い当てられているものであります。

 この語録に出てくる鈴木さんは自分のはからい心に困っている様子ですが、はからい心に困るのはなにも鈴木さんに限ったことではなく、聴聞をしている私自身も困っているものでしょう。しかし、何か色付けするお念仏をなかなかやめることが出来ないのも事実でありましょう。

 自分のはからいは阿弥陀仏の慈悲がナムアミダブツを通じて私に浸透して融かされます。「我が名を称えよ、必ずたすける」をお心をそのまま聞かせて頂くばかりで何も付け加える必要はありません。

ナンマンダブツ


次回念佛座談会は12日です。
今月22日は「秋 彼岸会」となります。「真宗同朋の会」は休会となります。






2017年8月7日月曜日

2日念佛座談会

今回は松原致遠師『ただ念佛して』からのことばと仏照寺師のことばです。
松原致遠師は三重県の生まれで香樹院師を非常に慕った方です。


・聞いてわかってよろこんでいるのは知識欲の満足である。一種の享楽である。また、みづからきづかぬ自己優越感の満足である。

・本当にたのんだというのはたのむ心の全くなくなったのをいうのである。微塵でも、わが方にたのむこころがあれば自力である。

・「奈何ともすべからず」というが求道の結論である。そこに「廻向というは本願の名号を十方の衆生にあたえたまふみのりなり」のみことが拝受せらるる。

・我等の内面の事実としては「ちっとも聞いて居らぬ」のである。この無限の空間をうづめるものが念佛である。

・地獄行き々々々とおっしゃるのは、仏になる用に立つものはないと云うことじゃ。それをなろうとかかるのは自力。地獄行きじゃとおっしゃると、それになろうとかかるやら、又知ろうとかかる。知らぬものが知らねばならぬと云うことじゃない。知らぬものが知った顔つきするじゃない。知ってござる御方が「助からぬ奴じゃで、そのままを助けて下さる証拠が南無阿弥陀仏」と知らせたまふ。お意(こころ)の通りが頂けたら、善知識の智慧が私の智慧になる。(仏照寺師)


「本当にたのんだ」というのは弥陀を憑(たの)んだということですが、それだけではよく分からないので梯実圓先生の解説を参考にします。

「たのむ」には『国語辞典』などには「たよりにする。あてにする。信頼する。たよるものとして身をゆだねる、懇願する」などの意味があるが、親鸞の「たのむ」の用法の中には「懇願する」という場合は全くなく、「たよりにする、まかせる」という意味でのみ用いられている。それは如来の御はからいにまかせるとか、わが身をたのまず仏智の不思議をたのむとか、自身が積み重ねた善根功徳をたのむ心を捨てて、ひとえに本願力をたのむといわれていた。親鸞の宗義からいっても如来に救いを願うというような信心であるはずがなかったということは明らかである。

 とあります。すこし長く引用しました。わたしたちが真宗の仏法を聴聞をしたり講座などを受講している場合に何度も「たのむ」という言葉を耳にします。何度も耳にするということはそれだけ大切なことばであるという事なのですが、親鸞聖人が意図している事とは違った理解をしてしまう場合がありますので、注意しなくてはなりません。このことを手掛かりに二つ目の言葉を味わってみてください。

 「聞いてわかってよろこんでいるのは知識欲の満足である」と一つ目のことばにあります。世間一般の「聞き方」というのは聞いて自分で考え理解することですが、ここではそのことを「知識欲の満足」だといわれます。この時の「聞いてわかる」というのは自分の聞きやすいように聞いて自分のわかりやすいように理解するということです。そのような聞き方になると本来のお心に触れることが出来ず、自分の解釈による誤った受け取りになってしまいます。ですので厳しいことばですが、肝要であるがゆえに誤った受け取りをしないようにと師の配慮が窺えます。

  「勅命のほかに領解なし」ということばがありますが、勅命がわたしの領解になり、そのまま疑いなく聞くことを信心と言います。
 信心は自分の心の中を詮索するものではなく、「必ず助ける」との仰せはナムアミダブツのお心であり、その声を聞くばかりであります。
 松並松五郎さんが正信偈をお勤め中に勤行本を落としてしまった事があったそうで、その時「あ、正信偈も用がないんや」と思われて以降ナンマンダブツだけであったというお話しが最後に紹介されました。

ナンマンダブツ
ナンマンダブツ

今月は10日に 盂蘭盆会です。
12日、18日、22日は休会です。








2017年8月2日水曜日

『佛に遇うまで』Kindle版250円 が電子書籍で発売されました。



 お気づきの方もあるかとおもいますが、『佛に遇うまで』(土井紀明著)が電子書籍の響流書房(こうるしょぼう)さんより発売されました。

  今年の初めに瓜生崇さんより「『佛に遇うまで』を響流書房から出しませんか?」という一言から始まり今回の発売に至りました。電子書籍で出版するメリットはデータ化されている事によって絶版されることが無く、且つ手軽でスマートフォンなどがあれば何時でも何処でも読むことが出来るという事です。

 特に今回発売された『佛に遇うまで』は読みやすいものであるとおもいますので、これを機に響流書房さんから電子書籍で購入していただければと思っております。尚、赤線を引かなければ読んだ気がしないという方は念佛寺にお問い合わせしていただくと印刷書籍でお渡しできます。

 電子書籍での購入などの仕方は響流書房さんのHPで確認してください。また、響流書房さんで販売されているラインナップは非常に充実しています。浄土真宗に関心があるがどの本が良いのか分からない方や気軽に仏教書を読んでみたい方は是非これを機会に購入してみてください。

念佛寺



2017年7月16日日曜日

8月の予定

 本格的に暑くなってまいりました。
皆様いかがお過ごしでしょうか?
8月の念佛寺の予定をお知らせいたします。


2日   念佛座談会  午後3時~5時半頃

6日   聖典講座   午後7時~9時 

10日 盂蘭盆会   午後2時~4時

となっております。
12日念佛座談会 ・18日真宗入門講座 ・22日真宗同朋の会 は休会ですのでお間違いのないようよろしくお願い申し上げます。

念佛寺

詳しくは 念佛寺HPまで http://nenbutsuji.info/




12日 念佛座談会

今回は『香樹院徳龍師』の言葉より、


・如来の勅命一つが、すべてのすべてじゃ。勅命を聞いてからの用事は、助けられた御大恩を喜ぶばかり。

・謂われを聞いてから信ずるのではない。お助けの謂われこそ、金剛堅固の私の信心であることを聞くのである。

・ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば、誰でもお慈悲はとどくのである。


「ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば」とありますが、私たちが自身の心を観(み)るという事は果たして出来うるのでしょうか。世間では、自分の心は自分がよく知っているものであり、他でもない我が心を自分自身以外の誰かが自身よりも知っているなどということは決してないと思っています。更には我が心を自制出来るものとして捉えているものです。
 
 しかし、縁さえあれば瞋り、腹立ち、嫉み、妬みというような心が自分の想定を超えて突如として沸き起こってくるものでどうにもなりません。後になって後悔をしたり詫びたりという大変な事態になることもしばしばあります。その時は、申し訳ない気持ちで一杯になりもしますが、時間が経てばいつもの私に戻っているものです。
 
 そのような無思慮無自覚な私たちに「ふかく我心の恐ろしさと、無常のはかなさを知れば」と、香樹院師は仰っているわけですが、決して私たちの主観に於いて知る事が出来ると思われているわけではありません。阿弥陀仏の「必ず助ける」との本願のお謂われを聞く中に、決して助からざる者だと照らし出され、そのような者だから必ず助けると願われ建てられた阿弥陀仏の本願が、大悲招喚の声の仏となって私の口からナンマンダブツと出でて、その大悲の御声を聞いてくれよとの思し召しがそこのあるのです。

一声一声
如来のお出まし
一声一声
浄土真宗
     (木村無相)
 
ナンマンダブツ